JR西日本 大阪城公園駅「大阪城公園駅」
おおさかじょうこうえんえき
陶板レリーフ

陶板レリーフ「大阪城公園駅」 文章:司馬遼太郎
大阪城公園駅 吹抜部コンコース壁面 1984年3月完成

作家より

司馬遼太郎小説家、ノンフィクション作家、評論家『草するにあたって』
 私には、この地に対するやみがたき想いがある。
 この地とは、上町(うえまち)台といってもよく、大阪といってもいい。あるいはこの台地のむこうにひろがる海ともいえるし、その上にうかぶ雲ともいえる。さらにいえば、この地で営まれてきたひとびとのいのちへの愛(かな)しみともいえるかもしれない。
 最初、気はずかしかった。そのため再三おことわりした。が、断るたびに、心の奥からこの地への感情の湧きおこるのをおさえかねた。ついに、書くことにした。これは、愛郷心というようなものではない。
 大阪という都市への尊敬心であると思っている。
 都市のすばらしさは、ひとびとがそこに参加する場所だということである。
 百代も前にこの地にきた人の子孫など、ひとりもいない。いま来た、というひとが、もっともすばらしい。私自身、この地にきたひとの三代目だから、古ぼけている。都市の場合、古くからそこにいたということは、すこしも自慢にならない。この都市で、どういう志を遂げようとするかが、課題なのである。
 都市は、機能である。
 自分の志を、この場―機能―の中でどう遂げるかが、都市生活の合目的のひとつである。学問、芸術、経済、あるいは愛と友情、さらには、暮らし。……
 私は、都市とその生活を讃美しているのではない。
 むしろ、つらさを語っている。都市は機能である、といっても、機能は樹木のように自然に生(お)い育ちはしない。都市生活者みずからが作り、試行し、慣用し、改造する。あるいは変革し、再び試行し慣用する。そういう営みの進行が都市である。
 いまひとつは、都市は美しくあらねばならない。美しさとは、秩序以外にない。人の心はあらあらしさに堪えがたく、秩序の中でこそやすらぐ。大阪ははるかなむかしから機能としては、大きくかつ精緻でありつづけた。しかし美しさという点では、かならずしも十分ではなかった。
 さらにいえば、都市もまた自然の上に載(の)っている。自然のなかで呼吸し、自然との調和のなかでのみその美しさを見出す。大阪を成立させているそれら自然と人工という荘厳な営みに、私はかぎりない畏敬をおぼえるのである。

※上記は、本陶板作品設置の際に、司馬遼太郎先生に寄稿していただいた作品への想いです。作品掲載全文は、現地にお越しいただくか、中公文庫『ある運命について』もしくは新潮文庫『司馬遼太郎が考えたこと』にてご覧いただけます。

作品によせて

大阪市長
大島 靖
築城400年を迎えた大阪城に花を添えるように、昨年10月緑豊かな大阪城公園の表玄関に新駅が誕生しました。
この大阪城公園駅の開業を記念して、このたびわが大阪の文化・歴史を後世に末永く語り伝える壁画が完成しましたことは、誠に喜ばしいことであり、心からお祝い申しあげます。
この壁画は、市民に親しまれる駅づくりを推進する大阪鉄道管理局のご熱意によるところでありますが、それとともに、わが国を代表する日本画の大家西山英雄さんと大阪城を舞台とした歴史小説を数多く手がけられている司馬遼太郎さんにより、それぞれ絵画と文章で大阪をうたいあげられた見事な作品が実現しましたことは、大阪市民として、誠に喜ばしい限りです。
折しも、昨年から大阪21世紀計画がスタートしたところであり、21世紀に向けて、魅力ある国際都市づくりを推進している大阪市にとって、またひとつ、たいへん貴重な文化の花が開いたことになり、まことに時宜を得たものとして、その意義は計り知れないものがあると思います。
このたびの壁画づくりにご尽力された関係者の皆様に深く敬意を表しますとともに、今後も、駅を中心とした公共芸術の輪が次第にひろがっていくことを念じ、心から拍手を送りたいと思います。

大阪鉄道管理局長
岡田 昌久
昨年の春、<アクティ大阪>オープンに伴う大阪駅リフレッシュに際し「大阪の四季まつり」など手法の異なる6つの壁画・モニュメントを設置いたしましたところ、駅利用者はじめマスコミ関係者など多くのかたがたから関心と過分なお誉めのことばを頂戴いたしました。駅という出会いの場に日々の生活の潤いとなる文化的な何かが強く求められていることを、あらためて実感として感じとった次第でございます。
昨年10月大阪環状線の新駅として、大阪城公園駅が開業いたしましたが、その記念として、このほど吹抜けコンコースの周囲を絵と文章で飾るという画期的大壁画が完成し、いよいよ披露の運びとなりました。
大阪城公園駅は、大阪城の玄関として外見も大手門風とし大阪21世紀計画に合わせて各種の文化的催事がおこなわれる大阪城国際文化スポーツホールの前に新設され、また一方伸びゆく大阪ビジネス街の入口として期待されております。大阪城が一層身近になったと言われ誇りに思っております。そこで、その環境にふさわしくまた先の大坂駅に負けない品格ある壁画を設置したいと願っていたところ、全国の公共広場に壁画づくりの実績を持つ(財)日本交通文化協会の協力を得て、西山英雄画伯・司馬遼太郎先生という願ってもない大家の手になる芸術作品が実現いたしました。
財政事情の困難な国鉄にありながら、このような文化的な駅の環境づくりができましたのは、大阪市ならびに大阪ビジネスパーク開発協議会の深いご理解の賜物と感謝いたしております。また、私どもの趣旨にご賛同いただき、快くご協賛いただきました地元大阪の各企業に対しまして、衷心より御礼申しあげます。これからも皆様方に親しまれる駅としてご利用、ご愛顧お願いいたします。

財団法人 大阪21世紀協会会長
松下 幸之助
このたび、ご高名の西山英雄先生ならびに司馬遼太郎先生のお作になる大阪にゆかりの深い絵画とことばの大壁画が大阪城公園駅に完成し、多くの人々に大阪をより一層ご理解いただけることとなりましたことは、まことに喜ばしい限りであります。
国鉄ご当局の並々ならぬ熱情によって実現した、この文化の薫り高い偉業に対し、両先生のご努力はもちろん、推進役の財団法人日本交通文化協会のみなさまに深甚なる敬意を表する次第です。
大阪では、住民、行政、産業界、各種団体などの英知とエネルギーを結集して推進される「大阪21世紀計画」が「大阪築城400年まつり」をプロローグとして昨年からスタートしましたが、それとほぼ時を一にして、桃山時代の大阪の風物が中心に描かれ、また大阪が歩んできた道と未来への賛辞がうたいこまれるという大壁画の設置計画が立案発表され、このたび見事に完成されましたことは大変意義深いことと思います。このような歴史と文化を未来の活力にという精神こそ、私どもの大阪21世紀計画の精神とまさに相通ずるものであり、まことに時宜を得たものと感謝にたえません。
大阪を21世紀に向けて世界を代表する国際文化経済都市へとさらに発展させようとする「大阪21世紀計画」に、この立派な壁画の完成はまたひとつ大きな華となりましょう。こうした輪がしだいに広がるとともに、力強く根をおろしていくことを念じてやまない次第です。


大阪城天守閣
『桃山―秀吉の時代・民衆の時代』
 豊臣秀吉が大阪城や伏見城を拠点として政治を行ったおよそ20年間を”桃山時代”と呼ぶ。もともと、この桃山という名は伏見廃城後にその跡地を利用して桃が栽培されたところから起こったもので、その地が秀吉晩年の居城であったのにちなんで歴史上の時代名称として使われてきたのである。ただ、これについては、政権の所在地という意味からすれば”大阪時代”と呼ぶべきであるという意見も当然ながら存在したのであるが、物みな香(かぐわ)しい春の息吹きを象徴するかのように可憐な花と実を結ぶ桃の木は長く暗かった戦国の世を抜けだして豊麗な文化・芸術の花を開かせた彼の時代を偲ぶにふさわしいものということで、もっぱら前者が使われてきた。
 さて、それではこの桃山時代とはいったいどんな時代だったのか、さまざまな特色のなかから二、三の点について眺めてみると、それはまず何よりも黄金の時代であったといえるだろう。誇張はあるにしても「太閤秀吉公御出生よりこのかた、日本国々に金銀、山野にわきいで……いかなる田夫野人(でんぷやじん)にいたるまで金銀たくさんに持ちあつかはずといふものなし」(『たいかうさまくんきのうち』)とうたわれる程に黄金が産みだされた時代であった。このありあまる黄金をふんだんに使って金碧障屏画に代表される絵画、高台寺蒔絵に代表される工芸品、そしてそれらを全部包含した総合芸術としての大城郭が産みだされたのである。なかでも秀吉の居城である大阪、聚楽、伏見の諸城は屋根瓦にまで金箔を貼った文字どおり黄金の城であったと思われるが、こうしたあくまで豪華・壮大の美を誇った黄金の輝きこそ桃山時代を特徴づける最も重要な要素の一つであった。
 また、この時代は南蛮の時代でもあった。16世紀の中頃に相ついでわが国の南辺を洗った二つの波―鉄砲とキリスト教―はおそらく日本史上外から押し寄せた最大の波の一つであった。それは単に未知の武器や宗教の伝来というにとどまらず、それまでの日本の社会の仕組みを根底からゆさぶる出来事であったと思われる。時あたかも戦国時代、鉄砲はたちまち合戦の主役となって先方や築城術の変化を来たし、ついには天下統一への原動力ともなった。キリスト教もまた、荒廃を極めていた人々の心に新鮮な教義を伝え、布教の波は短期間の内に全国へと広がっていった。そして、それらとともに浸透してきた西洋人との交易も盛んとなって、彼等によってもたらされた珍らかな異国の文物は日本人の心を限りなく魅了し、ついには自ら新たな世界へと船出していく者たちまであらわれたのである。このように、短かい期間ではあったが、桃山時代は日本が西洋文明とはじめて接触した時期でもあったのである。
 さらに、この時代は商工業者勃興の時代でもあった。永らく座(=特権的同業者組合)の桎梏にあえいでいた彼らは楽市楽座によってその鎖をはずされ、秀吉が企画した近世的都市の出現によってかつてない盛況を迎える機会を与えられた。時代の雰囲気は彼らをいsて豪壮な建築・工芸・絵画等々を作りださしめたし、遠く南海の諸国まで交易の足を伸ばす者達をも輩出せしめた。桃山時代において、こうした民衆の底知れぬエネルギーはその重く長かった雌伏の状態から解放されたのである。
 しかし、それでは桃山時代がただにこのような豊麗で希望に満ちた時代としてのみあったか、というともちろんそうではなかった。天正19年、京都で作られた有名な落首―石普請、城こしらへもいらぬもの、安土小田原見るにつけても―は、大阪・聚楽・京都大仏殿・名護屋・伏見と相ついで大量の人々を過酷な労役へと駆りたてた秀吉とその政権に対する怨嗟の声を代弁していたし、実際刀狩令や太閤検地に代表される秀吉の政策の多くは民衆を近世封建社会という新たな桎梏にしばりつける端緒となったものであった。そのうえ、海外関係においても朝鮮へと仕かけられた侵略戦争の傷跡は今なお両国関係に暗い影を残しているといわざるを得ない。
 こうした、多くの矛盾を抱えながらも桃山時代が日本史上における大きな画期であったことは明らかである。そして、その桃山時代を演出したのが豊臣秀吉であることも。その秀吉が、桃に似て淡紅色の花を咲かせる桜を愛したことはよく知られているとおりで、慶長3年すなわちその死の年にさえも醍醐の地へ花見におとずれている。そして、その後間もない彼の死とともに桃山時代はその短かい、しかし絢爛な幕を閉じることとなったのである。
 以上のように、文字通り桃山を生きた秀吉の大阪築城が四百年の齢を迎えた今日、桃山の精華を陶板に託した壁画が天守閣を指呼の間に望む当駅に掲げられることは誠に意義深いものがあろう。

作品データ

文章司馬遼太郎 企画日本交通文化協会、大阪鉄道管理局、(協力:大阪城天守閣)
場所JR西日本 大阪城公園駅 吹抜部コンコース壁面 マップ 製作クレアーレ熱海ゆがわら工房、クレアーレ信楽工房
設置時期1984年 3月 ニュース
種類陶板レリーフ
サイズ縦1.7m × 横11.0m
キーワード大阪、都市

作品データ

文章司馬遼太郎
場所JR西日本 大阪城公園駅 吹抜部コンコース壁面 マップ
設置時期1984年3月
種類陶板レリーフ
サイズ縦1.7m × 横11.0m
キーワード大阪、都市
企画日本交通文化協会、大阪鉄道管理局、(協力:大阪城天守閣)
製作クレアーレ熱海ゆがわら工房、クレアーレ信楽工房
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