木々のざわめきに囲まれた葉山町(神奈川県)の自宅で、奥谷太一さんは日々、筆を走らせる。吹き抜けのアトリエは、日本を代表する洋画家の父・博さんから譲り受けたものだ。2004年、国際瀧冨士美術賞の25周年記念・瀧久雄賞を受賞して以降、才能をいかんなく発揮し続ける奥谷さんだが、「画家を目指してはいなかった」と意外な言葉を口にした。(聞き手・上杉恵子、取材日・2019年8月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)
大学受験段階で画家志望を決める
——この葉山のアトリエは絵を描くには最高の環境ですね。
アトリエのすぐそばに私の寝室があるので、小さい頃からキャンバスや油絵具の匂いをかいで育ちました。しかし、父の聖域である仕事場に足を踏み入れた記憶はほとんどなく、創作現場を目にする機会もまずありませんでした。英才教育を受けたわけでも、絵を描くのが好きなわけでもなかったのです。小学校に入った頃には、父はすでに鎌倉にある神奈川県立近代美術館で個展を開くなどしていましたが、画家としての父との接点は相変わらず、アトリエから流れてくる匂いくらい。学校でも、図画工作が特に得意ではありませんでした。
高校生の時は「理系の学者になりたい」と考えていました。いま思えば、どこかに父への反抗心、対抗心があったのかもしれません。ところが、いよいよ志望大学を具体的に決める段になったら、なぜか急に「社会に出るなら、美術の世界の方が面白いのでは」という気持ちが芽生えてきました。父の生活ぶりを見て「毎日会社に行かなくてもよくて、いいなあ」などと甘い考えが浮かんだ部分もあった気がしますが、そもそもサラリーマンの生活がどういうものかが分からなかったので、何より不安が大きかったのだと思います。
——お父さまの反応は?
恐る恐る切り出してみると、「じゃあ、やってみるか」という返事でした。会社勤めの家庭なら、おそらく「芸術家なんてやめなさい」と言われるところですよね。そこは幸いにも反対されずにすみましたが、大歓迎という感じでもありませんでした。
それから父は私に幾何形体を描いてみるようにと命じ、出来栄えを確認してから「美大予備校に行ってみるか」と。後から聞いた話では、「俗っぽい、いやらしい動機で言い出したのなら、やめさせようと思っていた」そうです。息子が描いたものを見て、何とかものになるかもしれないと思ってくれたのでしょう。
近所の予備校に通い出してからも、父からはこれといった指導はありませんでした。高校卒業後は葉山を離れて東京に下宿し、新宿美術学院という予備校に通いました。この予備校にはかつて父が創設した空手部があり、若き日の父の武勇伝を数々聞かされました。かなり尾ひれがついて、もはや伝説と化していましたね(笑)。在学中に親子面談があったのですが、父は足を運んではくれたものの、最後までひと言もしゃべりませんでした。「何か余計なことを言ってしまったのでは」と恐くなったことをよく覚えています。
父の偉大さを感じたのは、こうして自らの意志で絵を描き始めてからです。この道に進むことを強制されていたら、反発していたに違いありません。
自己の存在について問い続けた学生時代
——見事に親子二代、東京藝術大学に合格を果たしましたね。
2浪を経ての合格でしたが、浪人中も卑屈にならずに過ごせました。予備校の先生方が受験対策に汲々とせず、後々に繋がる基礎的な指導をきちんとしてくれたおかげです。
油画専攻の定員は55人でしたが、それぞれ個性が異なる学生の集まりでした。コンセプチュアルな人が多かったですが、自分は特に「理論武装しなければ」と思うこともなく、伸び伸びと創作に打ち込むことができました。
当時はインスタレーションや現代美術が主流だった時代の終盤で、「絵を描くな」とも言われた時期でしたが、自分は不器用なので大学院に進むまで人体デッサンばかりやっていました。院生になってからは学内のアトリエを使えるようになりモデルさんも呼べたので、毎週のように来てもらってはデッサンをしていました。会田誠さん*¹や奈良美智さんが出てきて、社会の目が再び絵に向いてくるのはもうちょっと先のことです。
藝大では学年の終わりごとに作品を制作するので、そのときはデッサンで終わらせず油絵に仕上げました。1、2年とも描いたのは自画像。自己の存在について、常に頭の中で問い続けている学生でした。それと同時に、「絵を描いていくのだ」という気構えもできつつあった頃だったと思います。2年の時の作品はトカゲや鳥のオブジェを眺める自分が鏡に映っている、という構図でした。トカゲは、父がよくモチーフにしていました。
——その2作品で国際瀧冨士美術賞の瀧久雄賞を受賞しましたが、応募時の小論文にはリュウゼツランについて書いていますね。
卒業制作としてリュウゼツランを描こうとしていた時に、指導教授がこの賞のことを教えてくれたのです。リュウゼツランは成長すると高さが数メートルにもなり、50年に1度くらいしか花を咲かせないという珍しい植物です。確か静岡県の伊豆で初めて目にしたのですが、生のはかなさと同時に自然のたくましさが圧倒的な存在感で迫ってきました。この植物と自分との対比を絵で表現したいという思いで頭がいっぱいだったので、その決意を小論文に記しました。
最近の学生は賞を取るためにさまざまな努力をしているようですが、当時はそんな雰囲気になく、自分もさほど興味はありませんでした。教授から応募を勧められたので、教育実習などで忙しいさなかに何とか書類を準備したのを覚えています。前年の2003年に安宅賞を受賞したこともあって、教授は私に声をかけてくれたのでしょうね。
——賞金の使い道や授賞式の時のことは覚えていますか。
いただいた賞金も、リュウゼツランを描くために使いました。ロールキャンバスと木枠を買ったら半分の15万円が飛んでいきました。残りも絵の具や刷毛などの画材に消えたはずです。
ちょうどその頃、技法材料研究室でキャンバスによる仕上がりの違いを学んでいたので、キャンバスも自分で作っていました。木枠に張られた市販のキャンバスはすでに白い下地が塗られていますが、自分で地塗りすれば画面の光沢や質感を好きに調整できます。もともと学者肌なので、配合を変えて吸収性を調整するなどして研究を重ねていました。画材一つ一つの単価が高いうえにキャンバスまで手作りするとさらにコストが上がってしまうので、賞金は非常に助かりました。
授賞式では、ステンドグラス作家として名高いルイ・フランセンさん*²と話せたことが何よりうれしかったです。緊張している私に気さくに話しかけてくれて「まだまだこれからだよ。この賞をきっかけに頑張って」といった言葉をかけていただきました。「絵を描くな」という風潮の中、それでも描き続けていたのは同学年に10人以下という状況だったこともあり、自信と励みになりました。迷いが生まれてきた時期に評価してもらえ、「いままでやってきたこと、目指している方向性は間違っていないのだ」と思えたことは、とても大きかったです。
*1 日本の現代美術家。絵画のほか立体、パフォーマンスなど多様な表現を国内外で展開している。
*2 パブリックアート作家。クレアーレ熱海ゆがわら工房の所長を務め、国際瀧冨士美術賞創設時から第30期まで審査を担当した。
至福のフランス留学
——大学院修了後、母校で助手を務めながら創作活動を本格化されましたね。
独立美術協会*³の会員となり発表の場にも恵まれましたが、次第に「このまま大学に残っていいのか」という思いを抱くようになりました。もっと外の世界を見てみたくなり、文化庁の芸術家在外研修プログラムに応募し、12年に奨学生としてフランスへ行くことになりました。フランスを選んだのは自分の誕生日がフランス革命記念日の7月14日ということもあって、縁を感じたからです。やはりフランスへ留学していた父も、「太一はパリ祭の日に生まれた」とよく言っていました。
受け入れ先は自分で見つけなければならなかったのですが、パリ国立高等美術学校にパオロ・ウッチェロ*⁴を研究している先生がいたので、その先生に指導を仰ぐことに決めました。父は藝大で助手をしていた頃、ウッチェロの作品を1年かけて模写したそうです。ちょうどフレスコ研究室ができたばかりで、学生に見せる教材として気の進まないままに取り組んだ結果、「絵が変わった」と語っていました。絵具を厚く盛り上げる画風だったのが、薄塗りの絵を描くようになったと。その話が深く印象に残っていたのです。
1年間の短い留学でしたが、美術が常に身近にある至福の環境下で、美術館に通いまくりました。テロが多発する前だったので、イギリスやイタリアにも気軽に足を伸ばし、各地のウッチェロの作品を観ることができました。
フランス滞在中は自分が日本人だということを痛感させられましたが、帰国してみると今度は思ってもみなかった違和感に襲われました。似たような格好の均質な人ばかりが街にあふれていて、気持ち悪くさえなりました。その一方で、「どんな人もみな、同じ地球に住む仲間なのだ」という感情も湧いてきました。
——そうした経験が、のちの作風に影響を与えているのですね。
まず、自画像を描くことが減りました。帰国した翌年に1度描いたくらいだと思います。「みんな同じなのだから、自己を表現することに固執しなくてもいいのだ」と思えるようになったのかもしれません。
いまは街の中でいろいろ感じたことをメモして、それをもとに描くことが多くなりました。といっても、街そのものを描くわけではありません。表現したいのは時代の空気感で、ビルや道路といった具体的な情景は排除し、色合いで想起させています。以前は赤系を背景にしていたこともありましたが、最近は青やグレーが多くなりました。また、メモを5~10年寝かせてから描くこともあります。
——無機質な背景とは対照的に、カメラで撮影したりヘッドホンで音楽を聴いたりといった、人々のリアルな行動を多く描いていますね。
街のあちこちでスマートフォンを構えては撮影する人たちを観察していると、自分の目に映っている目の前の景色よりも、そこで撮った画像の方をじっくり見ているのでは、と感じます。こうしたものの見方の変容がとても面白い。いまの時代を生きる自分だからこそできる表現を目指していくと、おのずと電子機器に囲まれた日常がモチーフの一つになります。ちょっと前の作品にはガラケーが登場していましたが、いまはスマホに替わり、この先はヴァーチャル・リアリティーが溶け込んだ日常を描くことになるのかもしれません。
*3 1930年から続く、日本の美術家団体。
*4 初期イタリアルネサンスを代表する画家。
——思うように筆が進まない日もあるかと思いますが?
よく冗談で「ポジティブなひきこもり」と言っているのですが、2カ月くらい外に出ず、描き続けることもあります。自宅のすぐ裏が山なので、むしゃくしゃしたら登っています。森戸川の源流があって癒されますし、何も考えずに歩くと無になれます。
作品は自分の中で完結するかのように思いがちですが、実際は見てくれる人がいて初めて完成するものです。各々の人生、それぞれの背景を重ね、作者が思ってもいなかった見方をされるのが面白い。そこからこちらが新たなインスピレーションを得たり、見た人に新たな気付きを与えたりと相互作用が生まれると、とても満たされます。絵を介して十分コミュニケーションできているので、ほかの場面では「ひきこもり」でもいいくらいです(笑)。
昨年、個展を訪れてくれた女性が、「あなたの絵を通して、美術の道に進みたがっていた娘の気持ちが理解できました」と話しかけてくれました。世に出した作品が独り立ちしていていくのを感じて、心からうれしかったです。力のある作品を生み出し、社会に何らかの還元ができれば、これ以上の喜びはありません。以前、フランスのコルマールを訪ねた時、マティアス・グリューネヴァルト*⁵の「イーゼンハイム祭壇画」の前でじっとたたずみ、泣いていた女性を見かけました。自分もいつか、それくらいの感動を与えられる存在になりたいと願っています。
絵の世界で失敗することの大切さ
——最後に、あとに続く学生へメッセージをお願いします。
いまは失敗をしてはいけないような風潮がありますが、失敗しなければ絵の世界は次に進めません。自分自身も、大学院の修了制作を描いていた時は不安と葛藤でいっぱいでした。藝大の助手を辞めた時も、大きなターニングポイントでした。先生には「40歳まで続ければ何とかなる」と言われましたが、「藝大ブランド」はせいぜい3年くらいしか通用せず、壁にも直面しました。
表現者として描き続けながら考えていくことが、結局は1番の近道です。その過程で最も重圧を感じる時期に与えられる国際瀧冨士美術賞は、非常に大きな意味を持ちます。協会にはこれからも次世代を支援し続けていただきたいと思います。
*5 ドイツ後期ゴシックの巨匠とされる画家。
奥谷太一おくたに たいち
1980年神奈川県生まれ。2001年東京藝術大学入学、04年国際瀧冨士美術賞25周年記念・瀧久雄賞(グランプリ)受賞。07年同大学大学院修士課程修了。12年9月から文化庁新進芸術家海外研修制度で約1年間、フランスに滞在。03年安宅賞、05年O氏記念賞、09年第77回独立展独立賞、12年昭和会賞など受賞多数。父親は洋画家の奥谷博氏。