国際瀧冨士美術賞 第15期受賞者
小谷 元彦 ODANI Motohiko

国際瀧冨士美術賞 第15期受賞者:小谷 元彦

国際瀧冨士美術賞 第15期受賞者
小谷 元彦 ODANI Motohiko

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インタビュー

東京藝術大学彫刻科を修了後、国内外の美術館やビエンナーレでの発表を続ける美術家・彫刻家の小谷元彦さんは、第15期(1994年)国際瀧冨士美術賞受賞者です。彫刻をベースにしながら、写真や映像、インスタレーションなど多様なメディアを使った完成度の高い作品は、国際的に高く評価されています。(聞き手・永井優子、取材日・2019年7月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)

仏像から始まった彫刻への道

小谷元彦
小谷元彦さん 撮影:根本匠

——アーティストを志したきっかけは?

 僕はアーティストを目指したつもりは1回もないのです。もともと京都に住んでいて仏像が好きだったので、オリジナルの仏像彫刻が造れたら面白いなと思っていました。高校1年のとき、近所の仏師の教室に親が連れて行ってくれたのですが、最初に地紋彫りをやらされてこれが苦行だった(笑)。本当はこういうのを造りたいのですと自分で描いた仏像の絵を見せたら、「仏像を彫る前に、美術大学に行っていろいろなことを学んだ方がいいんじゃないか」と諭されて。そこで初めて美術大学の存在を知り、美術予備校に通うようになりました。

——それで東京藝術大学に進学したのですね。

 京都市立芸術大学の美術学部の入試システムは感覚テストみたいな感じで、平面構成や立体構成など広い課題が出題されます。それに対して、関東の美術系大学は専門性を求める入試で、彫刻科の入試対策が粘土という素材であることが興味深くて、受験期間が楽しいかもと思って東京に来ました。

——どんな学生生活でしたか。

 入学してからも作家になることに興味はなく、学部にいる間に何かよい彫刻を造れたらという感じでした。しばらくは、自分は大したことができないなぁと少し腐ったような状態が続いて、最終的に広告代理店に就職するのかなとか、ぼんやり思っていました。でも、大学2年生のときに、初めて自分で素材を選んで制作した木彫実習で、面白いものができてしまったのです。でき上がったとき、自分が造ったのに勝手に自立したものに見えて、作品が手離れしていく感覚を初めて覚えました。
 不思議なもので、それと同時に作品を「見られている」と感じるようになりました。大学のアトリエというオープンな場所で作っていたのですが、人間の目は正直だから、誰でも気になるものは見てしまいますよね。注目され、周囲の風景や環境が少しずつ変わってくるのを実感して、「いけるかもしれない」と。
 その作品のおかげで自信を持つことができて大学院にも行きたくなったし、結果を残せるか残せないか、とりあえずがむしゃらにやって、社会に打って出ようという気持ちになりました。

脳内イメージを凌駕する作品を

——作品の制作はどんなふうに進めたのですか。

 正直なところ、具体的なイメージはありませんでした。ドローイングで描いた形状が気になって彫ってみようと思ったのですが、とりあえず木を荒取りした時に偶然残った突起物をきっかけに丸く彫り始めたら、悪くない。もうちょっとやろうと続けているうちに、作業を続けること自体に気持ちが上がってきました。そこに直感で、つらら状のものを彫って突っ込んでみたら、それによって奥行きと空間が生まれて…… という具合でした。
 僕はどんな作品でも、必ずカービング*¹とモデリング*²の二つの手法を使っています。カービングだけでは自分のイメージをそのまま、ドローイングで詳細に描いたものを作品に展開していくような作業では、彫刻の限界を感じます。カービングで削ったものをモデリングして組み合わせていくと、プラスとマイナスの作業を両方できる。そのやり取りがすごく好きです。映像が面白いなと思ったのも、編集で取ったり付けたりできるからです。
 作品は自分のイメージを裏切ってほしいし、凌駕してほしいと思っています。脳の中で想像できることなんて、現実世界の縛りを受けて限界がある。僕がコンピューターを使うようになったのも、脳内イメージを刷新するためです。偶然性によって、意外な結果が起こったりするんですよね。だいたい作品がうまくいくのは、潜在意識に触れるための起爆剤をうまく配置できたときのような気がします。

——その記念碑的な作品で、国際瀧冨士美術賞に応募されたのですね。応募のきっかけは?

 「お金がもらえるし、だいぶ制作が楽になるよ」と先輩に勧められました。学生はとにかく制作費がほしいし、僕はわりと早い段階から、学内よりもできる限り外部で作品を見てもらいたいと心がけていたので、応募は運試しみたいなところもありました。
 奇跡の勘違いみたいなもので、いけると勝手に思い込んでいたのですが、受賞が決まったときは最初の目的のお金よりも、外で評価してもらったことがうれしかったのを覚えています。

——奨学金の使い道は?

 確か一括で30万円いただいた気がしたと思いますが、すべて材料代です。僕は素材を買い込んで、いろいろ試して失敗することが多いです。4月当初から卒業制作を始めて前期の終わりにはかなり進んでいたのですが、急激に気持ちが冷めて9月後半から一気に違うものに変えてしまったので、奨学金はこれ以上ないというくらい助かりました。
 その木彫の卒業制作『僕がお医者さんに行くとき When I go to see my docter』の一つが、今では東京都現代美術館に収蔵されているのですから、未来とは分からないものですよね。

*1 木などを削り出すこと。

*2 粘土などの素材を取ったり付けたりすること。

第15期国際瀧冨士美術賞応募作品
『無題 Untitled』1992年、木、第15期国際瀧冨士美術賞応募作品 ©Motohiko Odani, Courtesy of ANOMALY
僕がお医者さんに行くとき
『僕がお医者さんに行くとき When I go to see my doctor』1994年、木、H1120×W400×D400mm Photo:KIOKU Keizo、Shizuoka Prefectural Museum of Art ©Motohiko Odani, Courtesy of ANOMALY

「身体」という縛りを意識化する

Phantom-Limb
『ファントム・リム Phantom-Limb』1997年 ©Motohiko Odani, Courtesy of ANOMALY

——1997年に東京の代官山にあるP-Houseギャラリーで行われた個展「ファントム・リム」でデビューされましたが、ずいぶん早いデビューだったのですね。

 大学院に入ってすぐの時に、ギャラリーへプレゼンに行ったら目に留めてもらえ、道が勝手に開いてきたという感じです。作家やアーティストになる人というのは、そこに立ったら自動ドアが開いてしまうのだと思います。僕も自分では何もしていないのにベルトコンベアのように勝手に進んでいる気がして、ふと気付いたら作家になっていたという感じでした。
 25歳くらいでデビューして雑誌で取り上げていただいたりするなど、美術界にはわりと派手な入り方をしました。逆に言うと、足元がまだ固まらないうちに押し出されてしまった。周りからは幸運に見えても、その分のしわ寄せは精神的にも体力的にも削られる部分はあったかなと思います。何でもかんでも若かったからいいっていう話じゃないのだ、と思います。

Phantom-Limb
『ファントム・リム Phantom-Limb』1997年、Cプリント/アクリルフレーム、H1480×W1110mm each(A set of 5)©Motohiko Odani, Courtesy of ANOMALY

——『ファントム・リム』以来、テーマとしてきたのはどのようなことですか。

 『ファントム・リム』とは事故や病気などで手足が突然失われたあとに、あたかも存在しているように感じてしまう現象です。僕の根幹にあるのはそういった存在していないけれど存在しているもの、そしてそれ自体が何か違うものに変化していくことや、変化の過程みたいなものへの興味です。脳の中で感覚を再配置している過程に惹かれます。それは人間の身体の可能性だという気がするのです。
 テクノロジーや医学の進歩によって細胞を生み出したり、死んだものを生き返らせたり、自分が違う形に変化していく可能性が広がってきています。それは、人間が身体を持っている限り続けられる営みでしょう。一方、彫刻は自分の身体感覚を中枢にし、視覚や触覚や五感で素材の重量等とやり取りしながら、現実空間で身体という「縛り」を意識化することだと思います。

——木彫だけではなく、インスタレーションや写真・映像作品など表現手法を広げていった理由は?

 彫刻は基本的に、ほかのメディアに比べて物理的に時間がかかる鈍足なメディアでした。デビュー後しばらくして、海外の有名なキュレータからいきなり仕事のオファーが来たのですが、彼らの判断力の早さ、スピード感に接して、こんな遅いメディアを扱っているだけではついていけないと思いました。
 もともと僕は映像にも興味があったし、2000年代前半頃にはデジタル編集によって、一般の人も映像を使える時代に差し掛かっていることを感じていました。これは大きな変革が起こる、アナログの手作業の環境から1度離れないと、テクノロジーの進化によって危険な状態がやってくるかもしれないと思い始めました。
 それで、東京藝術大学の助手を3年間務めた後、映像の学校に通いました。あのときは海外留学も選択肢にあったのですが、映像を選んだことが一つの岐路だったと思います。映像という武器を増やしたことで、いままで培ってきたベーシックな彫刻の考え方を違うメディアに移して応用できるようになりました。

死の境界線上にあるものに近づきたい

——19年の4月開催の個展「Tulpa –Here is me」では、小谷さん自身の頭部を他者に重ねたり、身体の一部を動植物と融合させて形作った人体像を発表されました。その背景には、大病をされ生死の淵をさまよった体験があるとのことですが。

Tulpa – Pythonman
『Tulpa – Pythonman』2019年、ミクストメディア (FRP、箔、脱皮した蛇の皮、受話器、ピアス、ナイロン、ゴム)、H181×W115×D43cm Photo:Hidehiko Omata ©Motohiko Odani, Courtesy of ANOMALY

 17年に心筋梗塞で突然倒れ、救急搬送されました。スタジオに戻ってきたときに、これらは自分が死んでいたら存在しなかった作品かもしれないと思ったのです。自分の身体、セルフポートレートみたいなものを造ろうというプランでしたが、身体の上を死が通過して、死を境に未来の時間と過去の時間があるのだったら、それを繋ぐしかないと思いました。いつもだったら、私的なエモーションを軸にして作品を造りたくないと思っているのですが、あの時は実体験を織り込まないと前に進めない気がしたのです。
 彫刻はもともと、死のそばにあったのではないか。埋葬品として、あるいは死者の復活のためのもの、依代よりしろとしての人形ひとがたなど、彫刻というジャンルができたこと自体が死の境界線上にあったはずで、たとえば、人とも動物ともつかぬものがいっぱいいるエジプト彫刻のような、境界線上のものに自分も近づきたかったのです。

——これまでも動物の毛皮や髪などリアルな素材を多く使用しておられますが、今回も人体像の表面に蛇の皮が貼り付けられていて印象的でした。

 木を彫っていると水しぶきが飛んできて、これは生きていたのだと実感し、本物の素材の凄みを感じることがあります。もともと僕がやっていたのは、人工的に刈り取られて死んでいる木を、死体を加工するように作品に作り替え、違う価値のあるものに置き換える仕事です。蘇生させるような感じに近い。フェイクではない本物の素材の質感は木であろうと、毛皮や死骸のような素材であろうとも、考え方は同じです。本物にしかない情報量があると思います。また、自然物を扱っていると、古来の人間との繋がりを感じる瞬間があります。

——会場にはご自身の心臓音を元にした音が響いていて、時間というものをすごく意識させられました。

 心筋梗塞で心臓の半分の筋肉が壊死して、それ以降、自分の心臓音が怖くなったのです。本当に動いているだろうかとか、音で自分を監視しているような気持ちになってしまって。昔、寝つけない時などに時計の音を聞いていると、次第に拡大して聞こえてくるような感覚に陥ったことはありませんか。あの不安な心境、切迫感に近いものだったのかもしれない。それゆえ、身体の有限性を感じてしまう恐怖心みたいなものが、あの空間自体に宿っていたのではないでしょうか。
 黒電話などのオールドメディアを使っているのも、突然動かなくなってしまうデジタルと違って時間とともに古びて壊れていくことから、それらも身体の延長線上に捉えました。受話器は手に持っているけれど、それ自体を含めて身体機能のイメージです。

——死をくぐり抜けたことで、何か意識は変わりましたか?

 僕みたいに毎回違うようなことをやる作風だと分かりにくいし、浮き沈みは当然あるし、当たりを引けば外れも出します。それを必要以上に怖がっていたのではないかと思って、そこは本当にどうでもよくなりました。
 死んでしまったら活動は終わり。こういうものを造った、こういうことをやったという作品や実績が残るのだから、人が作品に関して何か言ってくることは生きていて活動している証拠であり、エフェクト(結果)みたいなものだと思っています。

複雑なことを軽やかに表現して残す

——今後の活動については?

 僕は早く世に出た分、芯がぶれたりしながら動き続けた部分があります。それが、10年の森美術館での個展「幽体の知覚」が終わって以降、3・11やニューヨークでの滞在を通しての制作を経て、ようやく自分の芯に少しずつ近づいているような気がしています。
 今回の展覧会に関しても、等身大の自分自身を反映できたと思っています。僕は、もともと非自然、不条理や不合理なことやモノに興味がある。初期の頃は作品の中ではシンプルに、ミニマルにしていく必要があり、破綻したものを混入してはいけないと思っていました。でも、合理、非合理や必要、不必要って誰が決めるのだろうと考えたとき、人の感性や常識みたいなものに委ねられているなら、そういった思考からは離れたくなった。
 僕は表現に対して考える射程距離が広く、美術のロジックの中だけでは狭く感じることもあります。そういう人間だから、はみ出した本人自身が浮き出てくるような作品が多くあって然るべきなのかなと思うようになりました。今は複雑な事象を軽やかに表現し、残し続けていきたいなと思っています。

幽体の知覚
展示風景:「小谷元彦展:幽体の知覚」森美術館(東京)2010年 撮影:木奥惠三 画像提供:森美術館
小谷元彦
撮影:根本匠

小谷元彦おだに もとひこ

1972年京都府生まれ。94年第15期国際瀧冨士美術賞受賞。97年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了。現在、同大学美術学部彫刻科准教授。彫刻や写真、映像、インスタレーションなど多様なメディアを使った作品で知られる。2003年のヴェネツィア・ビエンナーレ日本館をはじめ、多くの国際展に出品。主な個展に「幽体の知覚」(森美術館など10-11年)、「Terminal Moment」(14年)、「DEPTH OF THE BODY」(ニューヨーク、16年)、「Tulpa –Here is me」(ANOMALY、東京、19年)。11年第25回平櫛田中賞、12年芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。


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