国際瀧冨士美術賞 第13期受賞者
棚田 康司 TANADA Koji

国際瀧冨士美術賞 第13期受賞者:棚田 康司

国際瀧冨士美術賞 第13期受賞者
棚田 康司 TANADA Koji

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インタビュー

美しく彩色された細い身体に、独特の浮遊感を漂わせる一木造りの少年少女像で知られる彫刻家の棚田康司さんは、第13期(1992年)国際瀧冨士美術賞受賞者です。木と向き合い人体像を彫り出す行為を通じて、人間とは何かを追求し続ける棚田さんに、展覧会の出品準備のため、大学の卒業制作と最新作とが並ぶアトリエで話をうかがいました。(聞き手・永井優子、取材日・2019年8月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)

自己表現の手段としての彫刻

棚田康司
棚田康司さん アトリエにて

——彫刻家になろうと思ったのはいつからですか。

 表現者として1番の根っこができたのが、中学くらいの時だと思います。ギターを買って、いろいろなロックバンドの曲をコピーするうちに、自分でも曲を作りたくなったのです。体制への反発みたいなものがロックですから、反抗期も相まって抑えつけられるものに対して「何だ!」みたいな思いもありました。高校進学後、自己表現に絵を描くことが加わりました。彫刻に関しては、祖父がコミュニティーセンターで木彫を教わっていたので、変わったことをやっているなぁと親しみをもっていました。
 僕が大学を受験した当時は美術系大学の倍率がとても高かったのですが、その中では彫刻科が1番低かった。それなら可能性はあるかなと思って、消去法で彫刻を選びました。とにかく、何かを表現するのが好きだったのです。2浪して東京造形大学に入学しました。

——東京造形大学では、彫刻家の舟越桂さん*¹が教えておられたのですね。

 浪人しているときに、舟越さんが1988年のヴェネツィア・ビエンナーレから帰国して開いた凱旋個展を見て、すごく感動しました。略歴を見ると東京造形大学出身だし、どうもその次の年から造形大に非常勤講師で来るみたいだぞと聞いて、だったらと造形大が第1希望になりました。
 入学して舟越さんと出会い、いろいろ刺激を受けたことは自分にとってすごく大きかったです。ただ、僕自身も人間の形をしたものを造りたかったので、あまり近くなりすぎて影響を受けすぎるのもまずい。舟越さんは本当にやさしい方で、僕らのところまで下りてきてフランクに付き合ってくださったけれど、その辺の距離感をうまく取らないと、自分がなくなってしまうという意識はありました。

——国際瀧冨士美術賞に応募したきっかけは?

加久
『加久』1992年、小松石、230mm×190mm×270mm、第13期国際瀧冨士美術賞応募作品
女の肖像
『女の肖像(部分)』1992年、楠、第13期国際瀧冨士美術賞応募作品

 大学に募集が貼り出されていたのを見つけて、3年生の時から狙っていました。担当教授も応募を勧めてくれましたし、先輩も受賞したから自分もダメじゃないよなと思って。受賞できたおかげでアルバイトをせずにすみ、これで卒業制作に対して、気持ちの上でもお金の上でも、向かっていけるなとうれしかったです。
 いただいた30万円はドリルなどの機械工具とノミ、材料の丸太代で全部使いました。そのときの工具は、いまも現役で使わせてもらっています。大きな作品が造れたので、その勢いをもって東京藝術大学の大学院を受けることにもしました。

人の行方
奨学金を注ぎ込んで制作した、大学の卒業制作『人の行方』。ちょうど展覧会に出展するため、組み立てていたところだった

——彫刻の中でも木彫を選んだのはなぜですか。

 粘土も石もやったんですけど、木が1番相性が良かった。木は切りたいと思ったらすぐにチェーンソーで切れるし、塗りたいと思ったらすぐ塗れます。僕自身がせっかちで、早く見たいという気持ちが強いので、すぐに答えが出せる木という素材が自分と合っていると思います。

*1 等身大の木彫人物像で知られる、現代具象彫刻の彫刻家。ヴェネチア・ビエンナーレをはじめ国際展に多数出品。

空間を埋めるための人形ひとがた

——人物像をずっと造っているのはなぜですか。

 人間が好きで、人間に興味があるのでしょう。社会という鏡に自分が写ったときに、同じような形をしているか知りたい。たとえば異常な犯罪に接すると、自分の中にも凶暴性や狂気があるかもしれないと思ってしまいます。そうした社会の事象や生きている上での疑問を、人形ひとがたを造ることによって、自分と照らし合わせて見ている感じです。
 もう一つは、寂しいからだと思います。ロックンロール好きで反発してきた人生だから、きちんとした王道、体制から外されていく孤独感があります。若いときは外されて当然みたいな感じでいて、それで美大を受けたわけですが、美術の世界でも実は王道があったりして、それはちょっと外されたくないなぁという気持ちがあるのですけど(笑)。
 たぶん、組織の中で一緒に仕事をして働くことが、僕には向いていないのかな。やれるとしたら、もっと早い段階で美術の教員の口を探すなどしているでしょう。実際に採用試験を受けたこともありますが、やっぱり受からない。それならば、作品を造れということかな、と。アトリエでも1人きりなので、その寂しさみたいなもの、空間を埋める物体として人形を造っていく、そうすることで自分自身も安心するということかもしれません。

——大学院に進んでからは、自分の顔を石膏で型取りして繊維強化プラスチック(FRP)のマスク、仮面を作り、頭部にはりつけた作品を制作されています。どういう意図があったのですか。

内的凶暴性
『内的凶暴性』1998年、木/FRP/ミクスト・メディア、145×65×100cm 撮影:早川宏一 ©TANADA Koji, Courtesy of Mizuma Art Gallery

 自分がモデルになっているのが1番楽ですし、大学時代、造形屋でアルバイトをやっていたので、素材の知識もあり得意だったのです。マスクについては、自分というものをいかに消せるかを考えていました。型取りしたものに手を加えて、自分についているアクや男性性みたいな記号を消していくことで他者に近づいていくのですが、他人のように見えて、やはり自分であるみたいな感じ、他者と自分の関係性を「仮面」で出したかった。そのときの木というのは「仮面」を際立たせるための台座みたいな感じでした。

自国文化、自分自身に自信を

——2001年に文化庁芸術家在外研修員として7カ月間ベルリンに滞在されましたが、得たものは大きかったですか。

 ドイツ中世の彫刻家、ティルマン・リーメンシュナイダー*²の作品をリサーチしたくてドイツを研修先に選びました。また、現代のドイツでも人物像を手掛ける木彫作家が出てきているので、そういったタイムリーな部分を自分で確かめたかったのもありました。
 研修で得たものを一つだけ強いて言うなら、「あなたの国の文化に自信を持ちなさい」ということ。僕自身も30代前半の頃はアートに対する正解、不正解があるとするならば、正解は欧米にあるのじゃないかと思っていた。でも、ベルリンなどで好きな画家は? 音楽家は? と尋ねると、多くの方が自国の作家を答えられるくらい、自国の文化に対して誇りを持っている。それを突きつけられた感じがありましたね。日本は歴史があるにもかかわらず、どこかで非常に自虐的な感じを植え付けられていて、同じ敗戦国なのにこうも違うのかと思いました。

——日本の作家である自分自身に自信を持てということですね。

 そうです。それまで僕もタイトルを英語で付けたりしていたのですけれど、帰国してからは基本的に日本語で考えて、英訳の時に工夫してもらっています。
 2002年に帰国してしばらくして、東京藝術大学大学美術館陳列館で開催される「彫刻の身体」展への出品の話をいただきました。マスクなどを造っていた棚田康司の作品がどうなったか、みんなも多少は気にしてくれている。これは気合いを入れて変えなきゃいけないぞと、そのときだけは非常に意識的に考えましたね。

——その作品が、2003年の『記念日』ですね。

 祖父母の結婚式の写真を見て造ったのですが、僕自身の作品を変えたという点でもメモリアルな作品です。すでに亡くなっていた祖父はレリーフにして、昇天しているように壁に浮かせ、存命中の祖母を一木いちぼく造り*³の彫像にしました。祖母は白無垢姿では面白くないので裸にして、量感をそぎ落として構成していったら、ひょろりとした細長い人物像になりました。女性像を造って量感を落としていくと、少女みたいな体形になります。その後の僕の作風となった一木造りでゆっくりとS字を描いているようなスタイルの人物像は、このときから始まりました。
 自分でもすごく変な像だと思いましたが、独特なものができた、自分のものがやっとできたというドキドキ感は大満足というよりも、「これでいいのか?」というのがありながら、片や「これでいい!」という気持ちのせめぎ合いで、ずーっとソワソワしているというような状態なのですね。この作品を発表したとき、藝大の先生たちはぽかんとしていましたが、同世代の彫刻家の人たちには理解されてすごくうれしかったです。

記念日
『記念日』2003年、樟材に彩色/ミクスト・メディア、188×55×22cm/179×35×35cm 撮影:山本糾 ©TANADA Koji, Courtesy of Mizuma Art Gallery

——一木造りにした理由は?

 自分で運んで、立たせられる木の大きさはどのくらいだろうと調べてみたら35×35×135センチだったので、まずはその量塊かたまりから制作を始めてみようと思いました。木を買いに行くというのは儀式的なもので、新たな友達を見つけに行くような感じがあります。たくさんある丸太の中で自分の第六感を信じてこれだ、というのを選ばなければならない。表現を新しく変えるにしても、その儀式的なものは通過させたいと思ったのです。

蝶少女
『蝶少女』2004年、樟材の一木造りに彩色、177×72×40.5cm 撮影:木奥恵三 ©TANADA Koji, Courtesy of Mizuma Art Gallery

 『記念日』で手ごたえを感じたので、次は4メートル50センチの長い木を買ってきて、3分の1に切って四角く製材してもらって、三姉妹の像にしました。最初に手掛けた長女の像『蝶少女』は、たまたま制作中に『アンネの日記』の朗読がラジオから流れてきて、アンネ・フランクはどんな顔をしていたかなと思い浮かべたときに、なぜか小さかった頃の前髪をパツンと切ったおかっぱ頭の姉が出てきたんです。そのときに初めて、自分が造っているのは姉なのだと分かって、そこから少女を意識し造るようになりました。
 次女、三女もちょっと手を長めに造ったり、足を大きめに造ったりしています。この年代の子は、異様に足が長く見えたりすることがある。成長期のアンバランスさ、ある種の痛々しさも、人間にとっての美しさだと思います。

*2 ドイツ後期ゴシック美術を代表する彫刻家。運動感にあふれた木彫人物像で知られる。

*3 仏像制作に見られる、頭部、首、胴体といった身体の主要部位を一つの木材から作る手法。

重力に抗う、永遠の上昇性

——2011年発表の『少女』は、東日本大震災の影響を受けた作品ですね。

 あの像は、デッサンの段階では腕を下に向けたポージングだったんです。ところが制作中に震災があり、アトリエも停電が続いて1カ月くらい制作できなくなりました。生活に追われた部分もありますし、精神的な面でも彫刻を造っても人々の心の支えにはならないのではないかと、無力感を感じていました。
 そんなときに夢を見たのです。明け方近く、あの少女が棒を持って1人瓦礫の中に立ち上がっていて、僕はただじーっと見ているような夢でした。目が覚めてすぐに、近くにあったメモ帳にその姿を描きとめました。
 ポーズを変更し、ちょうどいい銅の棒をホームセンターで見つけてきて、それを持つような形にしました。自分の彫刻に救われたというか、彫刻をやっていいのだなと思いました。僕の化身として彼女が出てきて、棒を持っていたというのが重要なのです。何か漕いで先に進もうとしているようにも見えるし、僕自身もノミなどの道具を持つのが日常的なことなので。

少女
『少女』2011年、樟材の一木造りに彩色/銅パイプ、181.5×78×105cm 神楽サロン蔵 撮影:宮島径 ©TANADA Koji, Courtesy of Mizuma Art Gallery

——とても細い少女なのに、力強さを感じるのはなぜでしょう。

 僕が考える彫刻の大きな命題として、重力にどう抗うかという問題があります。下へ下へと重力が向かう丸太や石などの動かない物質を使って、見る人にどうやって永遠の上昇性を感じさせるか。そのためにはキリスト教や仏教などの宗教彫刻、中国の石像にも見出せる「永遠の構成」とでもいえる人為的な構成が求められるのです。ドイツで見たリーメンシュナイダーのマリア像などでそれに気付き、僕は『記念日』のときから追求してきました。
 たとえば、「S」の字や「く」の字が延々と繋がる構成で、彫刻そのものの高さで終わるのではなくて、意識としては宇宙まで続いていく。ポーズをつけるのではなく、そういった構成の中に少女なり少年をどう入れ込むか。足から膝、膝から腰骨、腰骨からおなか、おなかから肩と、ガクガクの線に入れ込んでいくのです。だからすごく変な格好になっていく。それが異様だけども不自然に見えない、存在として普通に受け入れられるのが彫刻のおもしろさだと思います。細くても強く見えるというのは本当にうれしい言葉で、自分がやりたかったことが伝わったのかなという感じがします。

自分と対話する鏡のような存在

——近年は少年少女像だけでなく、成人女性の像も手掛けられていますし、彩色しない作品も増えていますね。ずっと木と向き合ってきた中で、制作活動に変化はありましたか。

雨の像
『雨の像』2016年、樟材の一木造りに彩色、207×65×64cm 東京都現代美術館蔵 撮影:宮島径 ©TANADA Koji, Courtesy of Mizuma Art Gallery

 大人の女性を最初に彫ったのは、16年の『雨の像』です。15年にインドネシアのバンドゥンに2カ月滞在したとき、ヌードモデルをしてくれた地元の女性が非常に美しかった。このまま彫刻にしてもいいと思って、写真を撮らせてもらい、帰国してすぐに造りました。
 それまで成人女性を造るというのをあまり意識していなかったのですが、僕は男なので女性の身体には惹かれるのです。インドネシアの山の中で非常にストイックな環境だったせいもあり、強く制作の方向へとベクトルが向いたということなのでしょうね。
 彩色については、色があることで全体の存在がうるさくなってしまったり、木そのものの方が作品にふさわしいと思ったときは塗りません。最近は、こうやって彩色すればこうなる、というのが多少は分かるようになって、逆に色を付けないで勝負できるか、そんなことも考えるようになりました。
 若い頃は自分が木を支配していると思っていましたが、最近では初めから負けているという気持ちでやっています。常に木の方が僕を試してくるのです。たとえば、ここに大きな節が出てきたら、それも癖だと考えて受け入れるとか。結婚生活と似ていますね。最初はお互いが主張して喧嘩しますが、長く一緒に住んでいるとその辺の線引きがわかってきます。木に割れが入っていても、受け入れられるようになってきました。それは、木との付き合いの中で出てきた変化かもしれません。
 木を見て、終始語りかけているうちに、自分がやっていることの意味に気付くときがあります。祈りを通じて自分を変えてくれる仏像と同じように、僕にとって彫刻は自分と対話する鏡のような存在だと思います。

棚田康司
仕上げたばかりの作品『箱から出ていく彼女の像』を前に語る棚田康司さん ©TANADA Koji, Courtesy of Mizuma Art Gallery

——いまアトリエにある新作は、どのようなテーマなのですか。

 『箱から出ていく彼女の像』というタイトルで、ごみ屋敷で孤独死していた女性の記事を読んで制作を思い立ちました。箱=孤独という意味で、みんな自分の中に箱を持っているのだと思っているのですが、彼女は社会と関係性を断ち、その箱の中があまりに空虚だから、自分の周りの空間、部屋を物でびっしりと埋めていったのではないか、と。亡くなって部屋から出ていくとき、全裸の像に布を1枚かぶせてあげることで、彫刻では女神のようになる。自分が人間の本質的なことを彫刻に変換させた時には、多少美しいものになっているといいなと思いながら制作しています。

棚田康司

棚田康司たなだ こうじ

1968年兵庫県生まれ。92年第13期国際瀧冨士美術賞受賞。93年東京造形大学造形学部美術学科Ⅱ類(彫刻)卒業。95年東京藝術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了。美しく彩色された細い身体に、独特の浮遊感を漂わせる一木造りの少年少女像で知られる。2001年、文化庁芸術家在外研修員としてベルリンに滞在。05年第8回岡本太郎記念現代芸術大賞特別賞、10年第20回タカシマヤ美術賞を受賞。08年静岡のヴァンジ彫刻庭園美術館「十一の少年、一の少女」、13年東京の練馬区立美術館他で「たちのぼる。」展などの個展を開催。


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