瀧冨士美術賞 第9期受賞者
ヤノベ ケンジ YANOBE Kenji

瀧冨士美術賞 第9期受賞者:ヤノベ ケンジ

瀧冨士美術賞 第9期受賞者
ヤノベ ケンジ YANOBE Kenji

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インタビュー

ヤノベケンジさんはユーモラスな造形と強いメッセージ性を併せ持つ巨大彫刻を手掛け、国内外で活躍する現代美術作家。アニメや漫画などサブカルチャーの要素を作品に取り入れ、現代アートの第一線を疾走してきました。瀧富士美術賞第9期受賞者(1988年、現在の国際瀧冨士美術賞)でもあるヤノベさんに創作の原点や活動の軌跡を聞きました。(聞き手・永田晶子、取材日・2019年8月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)

大阪万博の跡地「未来の廃虚」が刺激した想像力

ヤノベケンジ
ヤノベケンジさん 京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の「ウルトラファクトリー」にて。背後に見える猫の頭は2017年に開始したシリーズ『SHIP’S CAT』の原型の一部。

——ヤノベさんの創作の「原点」は1970年の大阪万博だそうですね。

 ものづくりに目覚めたきっかけを振り返ると大阪万博は大きな要素ですね。経済成長が右肩上がりのタイミングで、「人類の進歩と調和」をうたう国際博覧会が地元・大阪で開かれる。その熱気は当時5歳の僕も感じていたのですが、開幕後は会場に行く機会はあまりなかったです。
 それが翌71年に万博会場に近い茨木市に引っ越したのです。自転車ですぐのところに会場跡地があり、友達と探検しに行くと取り壊しの真っ最中。巨大な鉄球でパビリオンが潰されたり、封鎖されたお祭り広場に磯崎あらた*¹さん設計の巨大ロボット「デメ」が残されていたり、全てが終わってしまった未来世界の風景を見るようでした。つまり、多くの子どもが感じた輝かしい未来ではなく、「未来の廃虚」に時間旅行したような経験が僕の万博体験だったのです。そのときから自分も何か造れる、何でもできるのじゃないかというクリエイティブな気持ちや想像力が芽生えたように思います。

——美術家を目指したのはいつ頃からですか。

 子どもの頃から絵を描いたり、工作したりするのが好きで、SF映画やアニメ、漫画にも夢中でした。小学生のときには自分で漫画雑誌を作って友達と回し読みしたり、高校生になると怪獣などの着ぐるみを手作りしてコスプレしたり。今でいうオタクですね。『ノストラダムスの大予言』が流行っていたので終末思想にも関心があった。高校の時にSF特撮映画の小道具を造形する人になりたいと思い、そのためには美術や造形を学ぶ必要があると、1浪して京都市立芸術大学の彫刻科に入学しました。だから最初の動機は不純です(笑)。

——どのような学生でしたか。

 入学後は美術史や現代美術の理論、鉄の溶接や木彫、石彫など彫刻のさまざまな技法を学び、その中で次第に「表現とは何か」を突き詰めて考えるようになった。最初希望していた映画の世界へ進む道もあったけれど、他人の世界観に頼るのではなく、オリジナリティーを追求した方がいいのじゃないか。自分の表現やアイデンティティー、時代の感性を膨らませることができるのは美術の世界ではないかと考えるようになったのですね。

——在学当時はもの派*²やミニマリズム*³といったストイックな美術動向が主流だったのではありませんか。

 僕はそもそも「怪獣を作りたい」が入学の動機なので、作品を見せると先生に「こんなの美術じゃない」と言われてしまう。でも、僕の心を動かすのは美術の文脈から読み解く必要があるストイックな作品ではなかった。いまもそうですが、当時から「みんなが喜んでくれる作品を作りたい」と思っていたし、その答えを必死に捜していました。

*1 日本を代表する建築家。国内外で100以上の建築作品を手掛け、2019年に建築のノーベル賞といわれるプリツカー賞を受賞。代表作に水戸芸術館、大分県立大分図書館(現・アートプラザ)、ロサンゼルス現代美術館などがある。

*2 60年代末~70年代初めに興った日本現代美術の動向。ほとんど加工しない素材を単体、もしくは組み合わせて作品とする。代表作家に李禹煥、菅木志雄、関根伸夫らがいる。

*3 1960年代の米国に登場した形や色彩を最小限に純粋化しようとする表現動向。ミニマル・アートとも呼ばれる。

美意識のよりどころはサブカルチャー

——第9期瀧冨士美術賞に応募したのは大学4年生の時ですね。

 芸大進学は父親に反対されたのですよ、「一般の大学に行ってサラリーマンになれ」と。反対を押し切って進んだ道なので卒業までに結果を出したいと思い、大学の掲示板に貼られていた募集案内を見て応募しました。自分がアーティストになれるか、1つの試金石だという気持ちもあった。受賞は父親を説得する材料になり、大学院への進学を決意するきっかけにもなりました。奨学金は制作費に充てたと記憶しています。3年生のときから学外で作品を発表し、制作費はアルバイトして賄っていましたが、いつも自転車操業だったので非常に助かりました。

——大学院在学中の90年、『タンキング・マシーン』を発表し、注目されました。

 『タンキング・マシーン』は生理食塩水を入れたタンクの中に鑑賞者が入り、瞑想できる装置です。一見、SF映画に出てきそうな未来的造形で、胎内回帰を経て生まれ変わるような体験をすることができる。ちょうど同世代の村上隆さん*⁴や奈良美智よしともさんらサブカルチャーを引用する若手作家が世に出始めた時期で、僕もそうした時代のパイオニアの1人だったと思う。自分たちの美意識のよりどころがサブカルチャーで、それを提示することが純粋な美の表出であり、新しい美術の流れになるのではないかと思ったのが90年代初頭ですね。

——海外にも行かれましたね。

 大学院1年生のとき、交換留学でロンドンに3カ月滞在しました。ある日、ロンドンのナショナルギャラリーでゴッホの『ひまわり』を見ました。素晴らしいと思ったけれど、隣では地元の小学生が本物を前に鑑賞教育を受けている。これはかなわない、と思った一方で、僕らが肌感覚で感動し、感性を育ててくれた日本の文化を見直す機会にもなりました。ミロのヴィーナスに匹敵するような美しさがアニメのキャラクターや怪獣のゴジラにある、それを掘り出すことに躊躇する必要はないと確信が持てました。ロンドンでは『タンキング・マシーン』のひな形のような作品を造りました。人が中に入れる木のフレームでできた卵の殻のような立体作品で、上部に設置したイギリス軍のガスマスクは蚤の市で仕入れました。ちょっとした引きこもり装置ですね。『タンキング・マシーン』は現在、金沢21世紀美術館が所蔵していますが、2019年に改めて再制作し、ロサンゼルスのギャラリーで発表しました。

——その後のヤノベさんの作品を振り返ると原子力や放射能の脅威が大きなテーマのように感じられますが、いつ頃から意識したテーマですか。

 91年に福井・美浜原発の細管破断事故が起きたときに非常に危機感を感じて、鉄と鉛製の放射線防護服『イエロー・スーツ』を造りました。原子力は、社会や暮らしと切っても切れない問題だと強く感じます。『イエロー・スーツ』はポップな造形だけれど、深刻な問題を内包しています。92年には水戸芸術館で、未来の実験室を思わせる会場の中で放射線防護服とか酸素発生器といった未来的装置を滞在制作する設定の個展もやりました。サブカルチャーを引用した『タンキング・マシーン』という作品を造ったとはいえ、次第に社会問題へ寄る方向に軌道修正していき、世紀末を生き抜く「サヴァイヴァル」をテーマに掲げて未来的装置を彫刻作品として発表していました。

*4 日本の現代美術家。アニメや漫画の表現を取り入れた絵画・彫刻作品で世界的に知られている。

タンキング・マシーン
『タンキング・マシーン』1990年。金沢21世紀美術館蔵 撮影:黒沢伸

重い現実から生まれるイマジネーションと覚悟

——1994年から3年間、ドイツ・ベルリンに滞在されていましたね。

 当時のベルリンは「壁」崩壊による空白地帯があり、東西の妄想がぶつかった「未来の廃虚」を思わせる場所でした。日本を不在にしていた95年、阪神・淡路大震災が発生し衝撃を受けました。本当にサヴァイヴァルが必要な状況なのに自分の創作は何の役にも立たないと打ちのめされ、次いで地下鉄サリン事件が起きたのです。92年の水戸芸術館での個展は『妄想砦のヤノベケンジ』とタイトルを付けたのですが、それは戦争も学生運動も経験せずふわふわした現実の中に生きている、いわば「妄想世代」である自分たちを肯定したい思いがあったからです。ところが、同世代であるオウム真理教の信者たちがサリンをばらまいてしまった。僕が肯定し、表現として制作した作品は意味をなさないように思え、ショックでした。自分の中の現実とは何か考え直す必要に迫られた。すると、核の問題は避けて通れなくなった。日本は唯一の戦争被爆国だし、当時住んでいたベルリンでチェルノブイリ原発事故(86年)の影響を強く感じていましたから。

——そうした経緯を経て97年に『アトムスーツ』プロジェクトを始められたと。

アトムスーツ・プロジェクト
『アトムスーツ・プロジェクト:保育園4・チョルノービリ』1997年

 チェルノブイリ原子力発電所から半径30キロ以内の「ゾーン」と呼ばれた立ち入り禁止区域を、自作の放射線感知服『アトムスーツ』を着て訪れるプロジェクトです。自分の中の妄想と現実を実体験によって接続する狙いがありました。スーツは『鉄腕アトム』へのオマージュですが、ガイガーカウンター(放射線測定器)が付き、現実的に機能します。事故後にゴーストタウンになっていた街を訪れると、政府が居住を禁止しているにもかかわらず、さまざまな事情で住み続けている子どもやお年寄りに出会いました。生々しい現実に接し、改めて「人類はとんでもないことをしてしまった」と。表現者として状況を変えることに寄与できなければ単なる自己満足だと思い、贖罪意識を背負い込んだ。チェルノブイリでの経験を通じ、重い現実とそこから生まれるイマジネーションに向き合うなら覚悟を決めるべきだと思い知らされました。

——2000年以降、腹話術人形のキャラクター『トらやん』、第五福竜丸に着想を得た『ラッキードラゴン』など話題作を次々に発表されましたが、テーマはシリアスでも造形は可愛かったり、ユーモラスだったりしますね。意識的ですか。

 もちろん、そうです。美術は専門家だけが評価するものではなく、もっと社会に向かって開いていくもの。深刻な問題を内包しつつ、見る人が受け取りやすい球を投げて理解してもらう表現が必要だし、それが僕のオリジナリティーだとも思います。関西人なので「笑ってもらってナンボ」という評価軸もあるしね(笑)。僕の作品はポップだし、お笑いやユーモアの要素も含まれているけれど、『ラッキードラゴン』や『トらやん』の奥には核の問題が横たわっています。

ミニ・トらやん
ずらりと並ぶ『ミニ・トらやん』 撮影:豊永政史
ラッキードラゴン
イベント「水都大阪2009」に登場した『トらやん』が操縦し、『ラッキードラゴン』が乗るアート船。
提供:KENJI YNANOBE Archive Project

『サン・チャイルド』像への思い 

——11年の東日本大震災と原発事故はどう受け止めましたか。

 大きな衝撃を受け、アートに何ができるのかを突き付けられた思いでした。福島の知人に「何でもやります」と声をかけ、子どもを対象にしたワークショップや作品展示を行うために福島に通いました。心が折れそうな状況の中で、いまこそアートの力が必要なのではないかと感じ、希望のシンボルになればと制作したのが『サン・チャイルド』像です。高さ6.2メートルの黄色い防護服を着た子ども像で、胸のカウンターに記された「000」の数字は放射能汚染がない未来を象徴しています。
 制作に際し、一番気を配ったのは顔ですね。飛び切り愛らしく、見た瞬間に「可愛い!」と希望を感じてもらえるような顔にしたかった。『サン・チャイルド』像は、教員をしている京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の「ウルトラファクトリー」の学生たちと一緒に造り上げました。ウルトラファクトリーは2008年に大学内に設けられた工房で、僕をはじめとしたクリエーターが制作過程を学生に見せる実践型教育を行っています。完成後は福島空港をはじめ、日本各地や海外に巡回展示し、「光が差すような思いがする」などと喜んでくださる声をたくさん聞きました。

——しかし18年、福島駅近くに設置された『サン・チャイルド』像に対し、原発事故の風評被害増幅を危惧する声が上がり、像は撤去されてしまいましたね。

 東日本大震災から7年経ち、市長は「原発事故を風化させてはならない」思いが強く、設置を急ぎすぎた。手続きを飛ばしたため、さまざまな齟齬が生じ、市民の声が置き去りにされてしまったんです。設置に同意した僕も非常に責任を感じたし、自分が聞きもらしてきた声があることに気付かされました。

——撤去の会見で「しがみついてでも福島に関わり続けたい」と語られたのが印象に残っています。

 現在も福島を訪れ、地元の方と話し合いを続けています。先日は南相馬に行きましたし、福島市の中学校でワークショップをする予定もあります。僕が力になれることがあれば地道にやっていくつもりです。今後、福島とどのような関わり方ができるか、今回の経験をいかに制作に生かすか、ゆっくりと自分の中で答えを出していくしかない。そう思っています。

サン・チャイルド
2012年の「福島現代美術ビエンナーレ2012」に出品し、福島空港に展示された『サン・チャイルド』 提供:KENJI YNANOBE Archive Project
ヤノベケンジ

ヤノベケンジ

本名・矢延憲司。1965年大阪府生まれ。88年第9期瀧冨士美術賞受賞。91年京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。90年に『タンキング・マシーン』で第1回キリンプラザ大阪コンテンポラリー・アワード最優秀作品賞を受賞。90年代は「現代社会におけるサヴァイヴァル」、2000年代以降は「リヴァイヴァル」をテーマに、ユーモアがある造形の中に社会的メッセージを込めた彫刻やインスタレーションを制作。国内外での個展やグループ展、芸術祭で作品を発表している。京都芸術大学教授で、大学内に設けられた全学生利用可能な共通工房「ウルトラファクトリー」のディレクターも務める。


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