版画、油彩、ドローイングと表現の幅を広げつつ、身近なモチーフに宿る精神性を表現してきた画家で京都芸術大学教授の森本玄さん。近年、海外の国際美術展で受賞するなど、実力は高く評価されています。第9期国際瀧富士美術賞の受賞者でもある森本さんに、制作に掛ける思いなどを聞きました。(聞き手・永田晶子、取材日・2019年8月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)
人生のスイッチを入れてくれた恩師
![森本玄](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_01.jpg)
——子どものときから絵は好きでしたか。
三重県の伊勢に生まれ、津で育ちました。体が弱くて幼稚園は3分の1くらいしか通えず、家でずっと絵を描いていました。小学校の先生に「将来の夢」を聞かれたとき、「絵描きになる」と答えたら級友に笑われてね。絵描きにはベレー帽かぶったオジサンのイメージがあったからでしょうか。朝日新聞の地方版に子どもの絵のコーナーがあり、掲載された時はうれしかった。小学5年生から街の絵画教室に通い始めたのですけれど、大好きな助手の先生が本当に貧乏で。絵の道は大変だと思うようになり、中学の時は公務員志望だった(笑)。高校では美術部に入ったのですが、そこで出会った熱血美術教師によって人生が大きく変わりました。
——どう変わったのですか?
先生は武蔵野美術大学出身の土嶋敏男さん*¹という方で、僕に目をかけてくれました。2年生になると「進路どうする」と聞かれ、数学の成績はよかったので「教師になって絵は趣味でやります」と答えたら、土嶋先生が「絵は趣味でやるものじゃない」、続いて「君はデッサンが描けるから、東京藝術大学か筑波大学を目指しなさい」と。人生のスイッチが入った瞬間でした。
——すてきな先生ですね。
土嶋先生が指導する美術部は、普段は石膏デッサンばかり。油絵を描くのは波切という漁村や神島での夏合宿中でした。それも日の出と共に起きて戸外で絵筆を握り、日が沈むと描いた作品を持ち帰り、さらに夜は「なぜ絵を描くのか」をテーマに先生やOBの先輩と討論するハードさ(笑)。夏の日差しの中で描く体験と先生に言われた言葉が重なり、「藝大を受験しよう」と気持ちに火が付きました。土嶋先生は昨年には三重県立美術館で個展を開催され、いまも時々「描いてるか?」と電話をくださいます。
——受験は大変でしたか。
当時、東京藝術大学油画専攻の倍率は36倍くらい。東京の予備校に通い、2浪して入学しました。入学後は気が抜けちゃうのか学校に来なくなる学生もいて、課題も1カ月半に絵画1枚を仕上げる程度で結構ユルかった。それが東京藝大のよさでもあるのでしょうが。3年生以降は版画を専攻しました。確かな技術を習得したかったのと、油絵よりデッサンが好きだったので線を活かした表現ができると思ったから。木版、銅版、リトグラフ、シルクスクリーンと版画技法を一通り習い、次に自由にテーマを見つけて制作するわけですが、そのときにスランプになってしまった。「技術は教わったけど何を表現したいのだろう?」と。
その頃、高校の美術部の合宿にOBとして参加しました。土嶋先生に「絶不調です」と打ち明けたら、「作品はフィルターのようなものだから、自分一人で作品を創り出そうと思わなくていい。何かに出会い、心が動いたら造ればいいのでは」と言われました。そして故郷の波の音を聞き、真夏の太陽に肌を焼かれながらスケッチしていると、生きている実感があった。気持ちが楽になり、再び制作に取り組めるようになりました。
*1 画家・版画家。人間と物質の関わりを追求した作品を制作。美術教諭として後進を多く育てた。
賞金は卒業制作の費用に
——卒業制作は順調でしたか。
合宿中に波切のカツオブシ工場の壁面をスケッチしたのです。コンクリートの無骨な壁だけど、波風に洗われた表情が美しい。「こんな風に力強く立っていられたら」という願望を投影したのかもしれません。当時、取り組んでいた銅版画の腐蝕技法や物質感と壁の荒々しい存在感が重なり、卒業制作はその壁をモチーフに選びました。
——大学4年生のときに第9期瀧冨士美術賞を受賞されました。応募したきっかけは何ですか。
大学院の先輩で、現在版画家として活躍している林孝彦さん*²に賞を教えられて応募しました。林さんは瀧冨士美術賞を84年(第5期)に受賞していたので、「奨学金をもらえるチャンスだぞ」と勧められたのです。奨学金で版画用紙を100枚単位でドカッと購入し、インクも買いました。故郷の海を取材するための交通費にも。当時、大型作品を造っていたため制作費がかさんで困っていたので、ありがたかったですね。
——その後、大学院に進み、博士号を取得されました。
博士論文では表現と技法の関係に注目しました。絵画制作はいわばイメージを物質化する行為です。そのときに駆使する技術や絵肌は感覚的に選んでいるのですが、なぜその方法を選ぶのかを、銅版画素材の物理的な特性から論じる内容でした。
——当時は主に銅版画を制作されていたのですね。
銅版画のエッチング技法は他力本願といいますか、腐蝕液が版を作ってくれる。刀で彫ると柔らかく感じられる銅の物質性にも魅力を感じていました。故郷の三重から持ち帰った海水を銅板の上に流し、表面に浮いた緑青や塩の結晶を版画に仕立てたり、銅板を直接海に浸けてみるなど、故郷という場と関わりながら作品を造り上げる実験にも取り組みました。自分は一体何者なのか、制作しながら試行錯誤している感じでしたね。
——大学院在学中の93年に発表したのが大型の銅版画作品『水のかたちのように―遠い雨』。黙示録的な光景が印象的です。
故郷で取材をしている時に目撃した、遠い海上に雨雲があり、雨が降っている光景がモチーフになっています。雨の部分を拡大すると、当時博士論文を書くために読んでいた書籍の文字が入っているのです。人間がエネルギーを込めない限り、芸術作品や著作は生まれない。雨も雲も、海水が太陽エネルギーに熱せられて発生します。その循環性は人間の営みに重なるようだと考えました。
*2 版画家。銅版画以外に和紙などに布や糸をコラージュ、インクで描かれたドローイング作品も発表している。
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光を表現するのに適した油彩に
![vessel:water](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_03.jpg)
![いただく](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_04.jpg)
——大学院終了後、就職されたのですか。
博士課程を終えた95年、30歳で京都芸術短期大学の教員になりました。絵を売って生活を立てる意識があまりなく、父も教師だったし、教育に関わりながら制作を続けるのは自然な流れでした。
——移り住んだ京都で版画から油彩に表現手法を変えられたのはなぜでしょうか。
着任当時、大学には版画の大型プレス機がなかったし、版画制作はいくつも工程があり、その原理を博士論文で理詰めで考えたので、少し煮詰まってしまったこともあります。複雑なプロセス抜きで表現できる油彩をもう1度やりたくなりました。また、洋画コースの教員として採用されたので、油彩を学生に指導する必要にも迫られていました。
——油彩ではコップや温かいご飯の絵を多く描かれています。こうしたモチーフを選んだのはなぜですか?
最初は版画と同じようなイメージを描いてみたけれど、全然サマにならない。ある日、昼食を取りに入った飲食店で水が入ったコップに光が当たってとても綺麗だった。2年後にグループ展に出す作品の題材を探していたとき、その光景を思い出し、描き始めました。コップは透明で存在感はないけど、特定の角度で光が集まるとパーッと輝く。描いてみて改めて、油彩は光を表現するのに適していると感じました。透明な器は僕にとって人間のメタファー(暗喩)でもあります。
——どのように制作されましたか。
日中は授業で忙しいので、朝早く起きて制作時間を作りだしました。まずコップを丁寧に洗い、浄水器の水をなみなみと汲んで、アトリエの隅に置く。写真ではなく、実物を見ながら描くんです。コップの水から派生し、生まれたばかりの次男が流す涙を絵にしたこともあります。これは抽象画のように見えますね。
水は命に繋がり、人間が生きるために不可欠なもの。その頃にドキュメンタリー映画『地球交響曲』を見て、登場する佐藤初女さん*³のおにぎりに感銘を受けました。炊きたての米が透き通るように美しく、風土に根ざす精神性を感じたのです。そこで土鍋でご飯を炊き、湯気が立っている状態を描いたのですが、なかなか構図が決まらない。最初は縦長のカンバスに茶碗全体を収めていたので、思い切って上下を切ってみた。それでもしっくりせず、お箸を画面に描き入れ、やっと完成しました。箸は自然の生命を自分の中にいただく「橋渡し」の意味も込めています。
![2011年の次男:MS(8歳)](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_05.jpg)
——油彩が評価される一方、近年はドローイングに力を注がれていますね。
2007年に京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に新設されたこども芸術学科へ異動になり、立ち上げから10年間関わりました。子どもと芸術の関係を考察したり、ワークショップを考案したりと忙しくなり、制作が少し滞ってしまった。そうするうちに東日本大震災が発生したんです。さらに原発事故が起き、無力感にさいなまれました。「何かしなければ」と考えたとき、自分ができることは絵しかなく、まず2人の息子、次に庭の植物をドローイングで描きました。不安な状況の中で原点に立ち返って、大切な存在を絵で繋ぎ留めたい思いがあったのかもしれません。思い出すと自分が表現しているというより、時の経過の中で描いている存在と一体となってできたような、絵を見返しても「本当に自分が描いたのか」と感じる不思議な体験でした。
*3 福祉活動家。悩みを抱えた人々を受け入れる「森のイスキア」を主宰。おむすびなどの食により心を癒す活動を行った。2016年に94歳で没。
![束の間のかたち:寝る](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_06.jpg)
絵画は未知の世界を垣間見る「鏡」
——最近は風景画に取り組まれ、2016年には北マケドニアの国際美術展オステン・ビエンナーレでドローイング部門の第一席を獲得されました。受賞作『10億年木陰のある散歩道』は何を題材としていますか。
偶然見つけた、巨大な商業施設の建設現場です。単純に鉄骨構造が好きなこともありますが、ショッピングモールは消費社会の一面を象徴する建物で、建設に伴って周囲の風景が変化する現象は非常に現代的だと感じました。田畑や自然が潰される状況に疑問を感じる一方、我々はその便利さを享受してもいるわけで、複雑な思いを抱きました。ほかに、巨大な螺旋のスロープ構造が面白くて描いていたら、それがグローバル企業の物流拠点の建物だったこともあります。
![10億年木陰のある散歩道](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_07.jpg)
——新作では街路樹と電柱の電線が絡み合う光景を描かれていますね。
地元の街路樹をよく見ると、立派なのにどこかプロポーションがおかしい。送電線に合わせて、過去に上部の枝がバッサリと切られているのですね。痛々しいけれど、たくましさもある。今はそうした自然と人為の関係、両義的な存在に目が向きます。
——版画に始まり、油彩を経て、現在はドローイング。そのときに置かれた環境に即して、表現する素材を変えてこられたのでしょうか。
意図的に変えている訳ではなく、時の経過の中で、折々の状況に合わせて自分を切り替え、そこで呼吸しながら表現している感があります。絵は自己表現というよりも、僕は制作しながら自分の輪郭が見えてくる感覚があるのですね。モチーフに関して言えば、描く対象と描画素材の両方から触発されることが大きい。別のモチーフや素材に向き合うと、毎回「いままでのやり方じゃ、通用しないよ」と言われる気がします。
——空間展示や映像、写真など表現手法が多様化し、美術の世界で絵画の存在感が総体的に薄れているようにも感じますが、絵画の意義や未来をどう考えますか。
どれほどテクノロジーが発達しても、人間が生きて死ぬ宿命は変わらず、誰もが身体の有限性や老い、病に直面します。絵画制作は手と目を使う行為で、素材を使いこなすのには手間や経験がいる。その面倒くささこそ人間存在の複雑さと親和性があり、コンピュータにはできない心を揺さぶる表現を生み出すことができるのではないでしょうか。僕は絵画を1つの「鏡」だと思うのですね。作家にとっては自身の心や精神を映し、鑑賞者は未知の世界を垣間見られる「鏡」。だから絵画は決してなくならないと思っています。
![森本玄](/wp-content/themes/jptca/images/interview14/interview14_artist_2.jpg)
森本玄もりもと げん
1964年三重県生まれ。88年第9期瀧冨士美術賞受賞。95年東京藝術大学大学院博士後期課程修了、博士(美術)。版画、油彩、ドローイングと表現の幅を広げつつ、身近なモチーフに宿る精神性を表現している。2005年のシェル美術賞展や08年の韓国・釜山ビエンナーレでコップや温かいご飯を描いた油彩画を発表。15年、薪にする前の木々を描いた作品「束の間のかたち:寝る」で「第5回ドローイングとは何か」展大賞。16年、国際美術展「Osten Biennial of Drawing Skopje」でドローイング部門第一席。京都芸術大学美術工芸学科教授。