瀧冨士美術賞(現在の国際瀧冨士美術賞)第9期受賞者、画家で金沢美術工芸大学美術科教授である大森啓さんの作品は描かれるものの形に合わせた変形パネルに絵を描いています。その作品たちは平面に描かれているのに立体にしか見えず、額縁など絵の外側を取り払ってしまった世界は絵の中の虚の空間、絵画が持つ不思議さを私たちに気付かせてくれます。(聞き手・篠原知存、取材日・2019年8月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)
イラストレーターになりたかった高校時代

——金沢美術工芸大学在学中に瀧冨士美術賞を受賞されましたね。
奨学金をいただいたことに感謝していますし、なにより、自分の絵を初めて全国規模で評価してもらえたのがありがたかったですね。いまでこそ大学間の交流があったり、海外に出て行ったりと学生の活動の幅は広がっていますけれど、当時の地方にある美術大学は情報が乏しかった。授賞式や懇親会に呼んでいただいて同世代の学生、作家を目指している人の存在をリアルに感じられたのは刺激になりました。

——その頃の作風はどのようなものだったのですか。
見た目は、いまのものとは違います。ただ、入れ子構造とか、絵の中にある空間、そこに描かれるもののありようとか関係性みたいなことに、当時からかなりこだわっていたというのは、後で気付きました。描き方は違っても、ものと空間の関係、ものとものとの関係、あるいは平面と空間の関係という要素の扱い方は、ダイレクトに現在の仕事に繋がっています。

——具体的に説明していただけますか。
具象絵画は通常、平面である画面に奥行きや空間を感じさせるものを描きますね。絵といえばそういうもの、と当然の前提みたいに思われていますが、実は不思議なことじゃないですか。なぜ平らなのに空間に見えるんだろうとか、そう見えるための仕組みがあるはずだとか。どうしたらその仕組みを使ってより面白い画面が作れるだろうとか、そういうことを考えていました。

——何を描くかという前に、絵画という、そのものが興味の対象になったんですね。
下地のままで何も描いていない部分が「もの」に見えるとか、描きこんであるのに平面的に見えるとか。そういう現象は絵画が本質的に持つ矛盾であり、特徴でもある。その面白さに学生のときから惹かれていました。自分なりの手法で作品として集中的に展開できているのがいまの仕事です。そういう意味では変わっていませんね。
——そもそも美術を志したのはいつ頃からですか。
最初はイラストレーターになりたかったのです。高校時代に『スター・ウォーズ』や『ブレードランナー』といった映画のポスターを見て、こういう絵が描きたいって。H・R・ギーガー*¹もシド・ミード*²も生賴範義*³も、好きな人がみんな油絵的なタッチだったんで、うまくなるには油絵だと。実に高校生的な考えでしたね(笑)。
——金沢美大へ進もうと思われたのは?
富山県小矢部市に住んでいたので、近くの金沢に美大があると知って自然に。高校時代から毎週土日は金沢の画塾に通っていました。現役で合格しましたが、イラストレーターになりたかっただけの私は西洋美術のことなんて何にも知らない。当時の自分は「写実的に描きたい」と思っていたのですが、それも見たままに描きたいっていう程度で、先生は「写実っていうのはそういうもんじゃない!」と。事物の構造の捉え方とか空間の中でのありようとか、西洋絵画のものの見方とかまったく意味が分からなかった。同級生の美術談義、芸術談義にも最初は戸惑いましたが、そのうちに面白いと思うようになっていきました。
*1 画家、イラストレーター、造形作家。SF映画『エイリアン』のクリーチャーデザイナーとして知られる。
*2 アメリカの工業デザイナー、イラストレーター。映画『スター・トレック』や『ブレードランナー』など多くのSF作品に携わった。
*3 イラストレーター。映画『スター・ウォーズ』や『ゴジラ』のポスターや有名作家の書籍装画などを迫力ある油彩画で手掛けた。
考える時間を与えられたフランス留学
——大学3年のときにフランスに留学されました。
フランスの国立ナンシー美術学校と金沢美術工芸大学の交換留学生に選考されて、1年半ぐらい向こうで過ごしました。金沢美大の教育はアカデミックで、具象絵画の基礎を叩き込んでくれる。それは私の肌に合ってたんですけど、ナンシーは完全に現代美術。普段はほとんど何も教えてくれない、勝手にやれって放ったらかしです。でも、作品を前にした批評会のようなときは、先生と学生が侃々諤々やり合う。学生が泣きながら先生に食らいついたりして。それまでと全然違う環境に置かれたことは、すごくよかったですね。
——刺激的だったでしょうね。
いろいろなことを考える時間も得られ、それが1番大きかったかもしれません。留学前は、他人と自分を比べることが当たり前でした。でも、ナンシーでは自分と比較できる相手が誰もいない。学生はいろんな国から来ていて、言葉も文化も違えば年齢層もバラバラで比較の意味がない。自分は自分であればいいっていうシンプルなことに気付かされ、楽になりましたね。
——作風に影響はありましたか。
どうでしょうね。金沢に戻って学部の3年になって、大学院の2年まで4年間を学校で過ごしましたが、向こうで経験したことや得た感覚っていうのは自分の中では整理がつかないまま、表面的にはあっちに行ったリこっちに来たり。なかなか消化しきれなかったというのが正直なところです。
——大学を出て教職の道を選ばれました。
美大のOBを通じて、滋賀県の高校のデザイン科に常勤講師の口があるよって、話をいただきました。専門的なことも教えられると思って赴任したんですが、デザイン科といっても生徒がみんな、絵が好きかっていうとそうでもない。最初はカルチャーショックでした。美大にいると、絵を描くのは楽しいことに決まっています。でも、社会に出て気付いたのは、美術とか絵っていうのは実は嫌われているんだってことに。
——ええっ、そんなことはないのでは?
いやぁ、結構嫌われていますよ(笑)。小中学校の授業で思ったように描けなかったり、先生や友だちに言われたことが気になったり、入り口のところで私はダメだっていう経験をするとなかなか好きになれない。デザイン科といいながらそういう子も多かった。「なるほど、私にとっての数学か」というのが分かりました(笑)。そんな子どもたちに美術の魅力や絵を描くことの意味を伝えるにはどうしたらいいのか、そもそも人生において美術とかデザインを勉強することの意味は何なのか、いままで考えたことのなかったことを考えるキッカケになりました。
——授業も難しそうですね。どんな工夫をされましたか。
たとえば四角い紙を渡して、なんでもいいから線を2本引かせる。できた4つの面を塗り分けさせたら、カラーコピーで増やしてあげて、15枚を3列5枚ずつ並べてもらう。みんなできたところで「それ同じ向きになってるけど、好きに向きを変えてみな」って言う。すると、意外な模様が出てくる。一つ一つの作業は単純だけど、言われた通りにやっていくと、本人が思いもしなかったものが生まれる。あっと思える瞬間がある。そうすると、もっと違う模様を出すにはどうするかとか、線を4本にしたらどうかとか、工夫が始まったりする。教科書通りにこれとこれをやってというのではなく、向き合っているこの子たちにどういう内容がフィットするのかという試行錯誤は、勉強になりました。
描いた枚数より大事な発表回数
——教員時代に国画会*⁴に入られましたね。
国展に出品し始めたのはたしか、勤め出して2年目からです。学生の頃と違って、周りとの繋がりがなくなっていくのも不安でしたし、大学時代の恩師も、いいなと思っていた先生も国画会に出品されていたので、自然な流れでした。

——公募展に出すことは大事ですか。
人によると思います。作品を自分のペースで制作して個展で発表する形でないと自分の表現として完結しない、という方もいます。でも、方法が違うだけで、公募展やコンクールも目的は同じです。人間関係を広げること、それと評価すること。評価については、もちろんほかの人の感想や批評を聞いたりもしますが、展示した自作を客観的に見ることを大切にしています。自分はいまどこにいるのか、どこまで来たのかということを判断するためです。私は描いた枚数より発表した回数の方が大事だと思っていて、年1回の国展のほかに個展をやったり、グループ展をやったりしています。発表の機会が増えると、展開していくスピードが速くなる。この仕事は何歳になっても発展途上だしゴールがないのですけど、人生で自分があと何作描けるか、どこまでいけるかと考えたらスピードは大事。10年かけて10回発表するのと1年で10回するのが同じとは思わないですが、やっぱり気付きは多いですから。
*4 日本の美術家団体。絵画部、版画部、彫刻部、工芸部、写真部の5部門からなる。国展は国画会が運営する日本最大級の公募展。
不思議さが感じられる画面作りを

——現在の特徴的な作風が確立したのは?
1度ものすごくシンプルにしちゃったんですね。色も取っ払って。もの自体を描くのじゃなくて、ものを描いた紙のようにして、そこに置いてみる、みたいな感じに。それが自分の中でしっくりきたんです。最初は四角いキャンバスに描いていたんですけど、少しずつ複雑に展開していくと、背景として塗ってある部分が絵として機能しなくなってきて、いらないのじゃないか、じゃあ無くしてみようかと。
——変形パネルになったのは「いらない」からだった。
わりと軽い感じですね。無くしたらどうなるかな、というくらいの。当時は感覚的で、うまく言語化できていなかったのですが、切り取ることによって絵の外側の現実の空間と絵の中の虚の空間が直接隣り合わせになる。そうすると、見る人が絵の中に描かれている虚の空間の不思議さに気付きやすくなるのです。絵というのは額縁があって「この中は絵ですよ」という了解のもとで、描かれた風景や人物を鑑賞する。約束事があるから安心して絵の中に入っていって、描かれたものを楽しむわけですけど、額縁とかバックとかを取り払うとなかなかそうはいかなくなる。
——虚と現実とがあいまいになっていきますね。
やってみると予想していた以上の表現になっていて、作品から教えられました。絵とはかくも不思議なものなのだ、と。そこから、不思議さの理由とか、もっと不思議さを感じられる画面作りとか、そういうことを自分なりに確かめていくスタイルで続けています。
——進化しているという感じですか。
うーん、螺旋のイメージでしょうか。作品ごとに、どこにフォーカスしていくかが変わっていく。現実的な質感を絵の中に取り込んでみたらどうなるか、逆に現実的でなくして、色や配色の問題に絞って色によって前に出てきたり引っ込んだりする性質を取り入れるとか。造形的な話だけではなくて、テーマというのかな、描きたいものも変わっていきますし。
——アンビバレントというか、多義的というか、複雑なことを表現できる手法だと思います。
ありふれた日常とその裏に潜む不安感や危うさ、そういうことが表現できるのも絵の特性ですよね。実は、楽しそうな絵ですねってときどき言われます。変形パネルにそう感じさせる要素があるのかもしれませんが、絵の中に戦闘機を飛ばしたりとかしていますし、決して楽しさだけを表現しているわけではない。
——崩れ落ちそうな状態とか、不完全というイメージを帯びているようにも感じられます。
そうですね。これも後で気付いたのですが、私が伝えたいテーマは、この絵の形態が理にかなっていると思えました。絵そのものが虚構なのですが、現実の虚構性とか、かりそめの感じとかと繋がりやすい。
——ご自分の表現はこの先どういう方向に行きそうですか。
これまでもそうですけど、次にこれやってその次は、という大きなビジョンがあるわけではなくて、取り組んでいることの中に必ず次の作品の課題とか、タネみたいなものがある。それを見つけて、というよりは突きつけられるんですけど。まだこれやってないぞとか、ここまではできてないぞとか、毎回必ず出てきますね。後悔だったり反省だったり、次への課題が見えたりもして、次こうしよう、こうしなきゃ、こうやってみたいっていうことの繰り返しです。

意識も技術も高い今の学生
——母校の金沢美術工芸大学で教える立場になられていかがですか。
いまの学生、お世辞でなく優秀ですよ。昔よりも情報量が多いので意識も技術も高いですし、力がありますね。自分も常に試されているような緊張感を持って、学生と接しています。単純に比較はできないですけど、学生時代の自分にはとてもここまで描けないなっていう学生が、山ほどいます。いまの子たちは、ほんとうにいろいろ考えてます。逆にそこまで考えなくてもいいよって言ってあげたくなるぐらいですけど。将来のことを考えざるを得ない時代なのかもしれません。
——映画のポスターとかの依頼があったらどうします?
もちろん、喜んで描きます(笑)。日本交通文化協会もパブリックアートに取り組んでおられますが、自分の絵が大型化してきたこともあって、公共の場でどう見えるかというのを以前よりかなり意識するようになりました。美術が社会とどう関わるかということについては、自分の作品ということだけでなく、常に考えています。また、高校で長く教えていたので、子どもたちが美術を通してどう成長できるかとか、教育の場でも自分のやれることがあると思っています。大学で教えるのは仕事なので当たり前ですけど、地元の中学校や金沢21世紀美術館でもワークショップをやらせてもらっていて、いろいろなかたちで子どもや一般の方と関わっていくことも、自分の役割として続けていきたいです。

大森啓おおもりあきら
1964年富山県生まれ。88年第9期瀧冨士美術賞受賞。91年金沢美術工芸大学大学院修士課程修了。85~86年にフランスの国立ナンシー美術学校へ留学。変形パネルに描いた独特の作品群で知られる。99年国展新人賞、2000年国展国画賞、16年石川県現代美術展美術文化特別賞など多数受賞。10~14年「個の原点」、10年に前田寛治大賞展などに出品。現在は金沢美術工芸大学美術科教授として後進の指導にもあたる。