瀧冨士美術賞 第8期受賞者
末永 敏明 SUENAGA Toshiaki

瀧冨士美術賞 第8期受賞者:末永 敏明

瀧冨士美術賞 第8期受賞者
末永 敏明 SUENAGA Toshiaki

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インタビュー

瀧冨士美術賞(現在の国際瀧冨士美術賞)第8期受賞者、日本画家で東北芸術工科大学美術科教授である末永敏明さん。大学院終了後に留学し15年間暮らしたドイツで日本人のアートとは何なのか、自分には何ができるのかと模索していました。そしてたどり着いたのは、日本人画家が描くものはみな日本画であるということでした。(聞き手・佐藤由紀、取材日・2019年8月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)

日本人画家が描くものはみな日本画

末永敏明
末永敏明さん 東北芸術工科大学研究室にて
Rote Genesis
『Rote Genesis』

——大学で教え始めた頃、学生から「これやっていいんですか」「これも日本画なのですか」といった反応があって、びっくりされたそうですね。

 日本画とは何なのか、いまだに明確な答えがない世界なのです。岩絵具やにかわを使うといった素材の違いを指すと思われているかもしれませんが、芸術は何でもありで、もっと自由でいい。ヨーロッパに住んで思ったのは、日本人画家が描くものは油絵具を使おうが、岩絵具を使おうが、みな日本画だということでした。国際的な場で生きていくため、日本人のアートは何なのか、僕は何ができるのか、自分なりの日本画を考えていましたね。

——時間を戻しますが、子どもの頃、周りに美術的環境はありましたか。

 家族にも親戚にも美術に関わっている人はいませんが、小学校の頃から絵の教室に通っていました。絵も工作も好きで、学校で『マジンガーZ』なんかを描くとみんなが喜んでくれて、休み時間には列ができました。おかげで友だちもでき、向上心が芽生えたかもしれません。

——神奈川県のご出身ですね。

 茅ヶ崎で育ちましたから海が近くて、魚がいて、海岸が遊び場でした。海といえば、忘れられない光景があるのですよ。自転車にようやく乗れるようになった頃、どこへでも行けるような気になって、親に内緒で海岸まで自転車をこいでいきました。水平線の彼方に目をやると、霞のなかに小さな白い島影が見えて、幼かった僕は「あっ、南極だ」と大喜びしたのです。その頃から、何となく外国へ行ってみたいなと思っていました。といっても、どうすれば実現できるのか分からない。受験を前に絵画教室も辞めて、高校の普通科へ進学しました。

——外国へ行く夢はどうなりましたか。

 高校生のとき、子どもの頃に通っていた絵画教室の先生とばったり会い、先生がシベリアに抑留されたときの話を聞きました。職業が絵描きだと分かると、収容所のソ連兵たちが次々にセピア色の家族写真などを持ってきて絵に描くようにと言ってきたのだそうです。おかげで捕虜仲間全員が生還できたと言っていました。外国へ行くなら絵描きがいい。絵は外国人と心を通わせる手段になるのだ、と思いました。

——日本画を選んだのはどうして。

 美大受験の予備校へ通っていたとき、講師だった日本画家の先生に「国際人になりたければ日本画家になれ」と励まされたのがきっかけです。油絵は描いていたのですが、日本画がどんなものかよく知らなくて、創画展を見に東京へ行ってみました。初めて見る日本画でしたが、それはきれいで、こんな素材があるのかと驚きました。ザラザラの絵肌の上で絵具がキラキラ光って、ファンタジックでしたね。

ドイツで意識した日本の歴史と文化

——1987年に瀧冨士美術賞に応募した時の推薦書がありますが、指導教授の平山郁夫*¹さんが「末永敏明君は1年生時より真面目な制作態度で意欲的な作品を制作しておりました。少年や風景、動物、魚等の自然物をモチーフとした、作者の内的世界を描いた連作は、写実を基にロマンティシズムを漂わせる優秀な作品群に思われます」と評価し、2年で安宅賞を受賞、3年のときに春季創画展に入選したことを書いておられますよ。

 あー、そんなふうに言ってくれていたのですね。親に美大入学を反対されていた手前もあって、何か結果を出さなくてはと一生懸命だったかな。早い時期にコンテストなどに出品するのはよくないという声もあったのですが、ぼくは作家になれるかどうかを知りたくて、積極的に挑戦していました。

瀧冨士美術賞応募作品
瀧冨士美術賞応募作品 1986年。麻紙、寒冷紗、箔、1040mm×1295mm

——で、4年生の春に瀧冨士美術賞に応募されたのですね。

 学内の掲示板でポスターを見て、推薦文を教授に頼みにいきました。受賞が決まって、うれしかったですね。学内の賞と違って、外部の団体の賞でしたから。何よりも授賞式で京都や金沢などから来た同期生たちと知り合えたことが財産になりました。

——ドイツ行きは大学院を修了した直後ですか。

 大学院を修了したあと、作品の制作や展覧会など1年間ほど日本でやらなければいけないことがあって、その間に留学の準備をしました。めちゃくちゃ勉強してドイツの大学に入学し、その後、文化庁の在外研修員*²として派遣してもらう機会もあって、なんとか卒業し、2005年までの15年間ドイツにいました。ドイツの大学時代の仲間たちと一緒に芸術家集団を結成してポーランドの作家と交流するといった活動にも参加し、そのときの交友関係はいまも続いています。ドイツでは、公共機関の文化担当部門が若い芸術家を資金面で手厚く応援してくれ、環境に恵まれていたと思います。

——ドイツに住んで、日本人としてのアートを認識するようなった、と先ほどおっしゃいましたね。

 驚いたのは、街なかで絵を描いているといろんな人たちが寄ってきて、「オー・ヤーパン!」と僕の絵を見て口々にいうことでした。自分の絵は必ずしも日本的ではないと思っていたので、「あなたが思う日本の色ってどういうものか」と聞き返したこともあります。すると、平安時代の絵や着物、玩具、神社、紅葉した山の写真などを持ってきて「これだ」と説明してくれるのです。いろいろな国籍の同級生たちにも「君の色は日本人だ」と指摘され、だんだんと自分のメンタリティや自分の中にある日本と同調する部分を探すようになりました。日本にいるときは外国の死生観や宗教に関心があって作品にもしてきたのですが、ドイツへ行って日本の歴史や日本人とは何者なのか、といったことをずいぶん意識するようになりましたね。

*1 日本を代表する日本画家。東京藝術大学学長や日本美術院理事長のほかにユネスコ親善大使、文化財保護・芸術研究助成財団の理事長などを務めた。

*2 新進芸術家海外研修制度。文化庁による芸術家のための海外研修支援制度で、旧称が芸術家在外研修。

地球は素敵が繋がっている

——ご自身のホームページで、生き物などを描いていて常に思うのは、「そのものが生きている間に持っている以外の時間や繋がりのあきれてしまうぐらいの永遠性」であると書いておられます。この永遠性というのは?

 いのちの始まりは小さな点のようなもので、それがくっついたり科学反応したりして大きくなって、生命が生まれる。それが進化し、いずれ絶滅していって、その星からもいなくなる。その星も38億年経っている――とか、そういった果てしない時間の流れを感じるのです。

Veränderung
『Veränderung』

——星にも生命があると考えておられるのですね。

 星が好きなのです。山形にいると、その星がよく見えます。この間、岩手に行ったとき、空が曇っているのでどこかでたき火でもしているのかなと思ったら、天の川でした。宮沢賢治が「乳の流れたあと」といったように、白くモヤモヤっとしている。宇宙にはチリなどもいっぱい浮かんでいますよね、そうしたものがGENESIS(ジェネシス)シリーズの点々に繋がっています。小さな点々はまた、いのちの始まりでもある。『Veränderung』は島の上を飛行機で飛んだときに見えた風景を描いたものですが、空からだと宇宙空間に隕石が浮かんでいるようにも見えてくる。妄想とか錯覚することができるような、だけどエネルギーが動いていて、わくわくするような絵を描いていきたいのです。

——現在は山形市にある東北芸術工科大学で教えていられますが、どういう経緯で来られたのですか。

 ドイツは住み心地がよくて、永住権をもらってそのまま残る選択もあった。でも40歳を前に、もう1度挑戦したいと考え始めましてね。そんなときに、この大学で教員を募集していることを知り、いままでいろんな人と出会い、絵を通してさまざまなことを感じて生きてきたのだから、その可能性を伝える仕事をしてもいいのかなと決断しました。

——山形の住み心地はどうですか。

 気候もいいし、何よりもうれしいのは自然が美しいこと。山がカラフルで、ヨーロッパですごく飢えていた風景だなと思いました。ドイツの山も紅葉しますが、だいたいが同じ色なので、山形とは大違いなのです。

——宮城県の松島をテーマにした展覧会もされていますが、白い岩がそそり立つ「青い森の大地」も東北の風景ですか。

青い森の大地
『青い森の大地』

 青森県の仏ヶ浦ほとけがうらです。今度、東京の日本橋でやる展覧会では北の生態系と南の生態系の違い、動植物、昆虫とかの匂いや色の違いのようなものを展示できたらなぁと考えています。高畠のブドウとドラゴンフルーツ、青森のリンゴとマンゴーなど対になっています。実はここ数年、タイ、シンガポール、カンボジアなど東南アジアへ行く機会が増えました。そしていまいる山形と比べることがあって、ああ、なんか食文化、植物、昆虫、動物など、いろいろなものが違うなと思ったのですが、同時に地球の上で長い年月をかけて変遷してきた生態系ということでは北も南も同じ。だからどこも素敵だと思います。どちらがいいのかじゃなくて、どこもそれぞれ違うのだけど素敵だな。正しいものは何だとかではなくて、地球の不思議や偶然とか、その素敵がずっと繋がっている、ああどこもいいな、という展覧会にできたらうれしいです。

『北の果実』(ブドウ) 『南の果実』(ドラゴンフルーツ)
『北の果実(ブドウ)』(左)、『南の果実(ドラゴンフルーツ)』(右)
『北の果実』(リンゴ) 『南の果実』(マンゴー)
『北の果実(リンゴ)』(左)、『南の果実(マンゴー)』(右)

アートで得られる喜びを

——アートの先輩として、いま学生たちに最も伝えたいことは何ですか。

 絵を描く学生には、内省的な性格の人が少なくありません。自分のために描いている、あるいは楽しいから絵を描いていると話す人も多い。ドイツでの経験から言えるのですが、アートは自分以外の人と繋がるためのすごくいい手段なのだということを知ってもらいたいですね。子どもの頃から絵が好きで得意だった若者が美術大学へ入って、それまでのコミュニティと違って美大の中では自分がそれほど特殊じゃないことに気付いて、絵が嫌いになってしまうこともある。でも、そんなに長い間、絵を描き続けることができ、面白がることができるのは特別な力を持っているからです。だからそれを外に向けて開いて、人と共有することに結びつけてほしいです。

——展覧会をするということですか。

 それもありますが、見てもらうのは身近な人でもいいのですよ。作品を通して、人と語り合うこともできる。たまたまうまくいって、絵の収入だけで暮らしていける人もいますが、そうじゃなくてもアートで得られる喜びはいっぱいあります。日本にはどうしても絵描きになるか、挫折するか、といった脅迫観念があって、筆を折ってしまう人もいる。それだけ、アートが社会に浸透していないってことかもしれませんね。普通の人たちが就職や誕生の記念日に絵を買ったり、絵を飾った部屋でホームパーティーをしたりする、絵によって自分の考え方が変わるきっかけにする。そういう文化が広まっていってほしいなと願っています。

原 智

末永敏明すえなが としあき

1964年神奈川県生まれ。87年第8期瀧冨士美術賞受賞。90年東京藝術大学大学院日本画専攻修了。いのちの不思議を連想させるGENESIS(創世記)シリーズなど鮮やかな色彩は、静謐な日本画世界を見慣れた者を驚かせている。91年からドイツへ留学、2005年までの15年間滞在の間、97年にデュッセルドルフ芸術アカデミーでマイスターシューラー取得。現在、東北芸術工科大学美術科教授。86年安宅賞、01年エンゲルベルト・ケンペル国際コンクール1等賞、08年両洋の眼展河北倫明賞ほか多数受賞。


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