アーティストには二つのタイプがいます。自分の作品にメッセージを込め、観る人に伝えようとする人。もう一つは。自分のために描いているのであって、メッセージを伝えようとは思わない人。奈良さんは後者のタイプだ。(聞き手・西川恵、取材日・2017年9月、初出『国際瀧冨士美術賞40年(2020年刊行)』)
奨学金で初の個展

——瀧冨士美術賞*¹に応募したきっかけは何ですか。
ボクは愛知県立芸術大学で島田章三先生*²のクラスでしたが、みんなのように先生の元に集まってワイワイするのが好きでなく、むしろ担任でない先生の家にばかり遊びに行っていました。島田教室でボクはあぶれ者のような感じで、先生になついている学生は絵を見てもらったりしていて、心の中では「いいな」と思っていました。しかしいまさら絵を見てもらえるわけでもない、と距離を置いていました。4年生のとき、島田先生に「こういう美術賞があるから応募したらどうだ。推薦状を書くぞ」と言われました。青天の霹靂でした。絵の制作を一生懸命やっているのを見ていて、話を持ってきてくれたのだなと気付きました。どこか先生に反発していた自分と比べ、先生は一回りも二回りも大きかった。
——受賞する自信はありましたか。
たくさんの人が受けるので、受かるとは思わなかった。受賞の連絡をもらったとき、うれしいというよりびっくりしました。先生は大丈夫だからと言ってくれていましたが。

——奨学金を何に使ったか覚えていますか。
奨学金30万円でビールを何ケースも買って、近くに住む後輩たちを集めて宴会をしました。その頃ボクは、大学脇の農家の人が趣味で建てた納屋のような小屋に住んでいて、周りに仲間たちの小屋も点在していた。年長のボクは後輩たちに夜食を作ってもらうなど世話になっていて、受賞は自分の力だけでないと思っていたのでそのお礼がしたかった。余ったお金で名古屋の画廊を借りて個展をしました。初の個展でした。
*1 現在の国際瀧冨士美術賞。
*2 日本の洋画家、版画家。多くの若手アーティストを育てたことで知られる。日本芸術院会員。愛知県立芸術大学学長、横須賀美術館館長なども務めた。
小説を読む、音楽を聴く、そして絵を見る

——子どもの頃、本をよく読んだと聞いています。
最初にちゃんと読んだ長編物語として覚えているのは、小学校3、4年の頃に母親が買ってくれた石森延男の『コタンの口笛』です。差別と戦いながらアイヌの子どもが大きくなっていく話で、青森と風土が似ていて、自分の周りにも同じような話があり、リアリティーを感じたのだと思います。高校時代は宮沢賢治の詩も好きだった。同じ青森県出身の太宰治や葛西善三、石坂洋二郎も読みました。
——文学好きの少年だったのですね。
中原中也、金子光晴、梶井基次郎などの詩もよく読みました。三島由紀夫は好きではなかった。美しさと素晴らしさは分かるけど、何かが違うという感じでした。頭では理解できても、体が理解しない。むしろ、よくこんな自分のくだらないことを書いて小説になるな、という太宰治の方がぐっときた。
——奈良さんは音楽にも早くから親しんでいましたね。
ラジオから流れる音楽の虜になり、ジャズ、ロック、フォークソング、英国やアイルランドの古い民謡などいろいろ聴きました。詩や小説は暗唱する訳ではないけど、読んでいるうちに言葉が消えてイメージになっていく。音楽も音をなぞれるわけではないけど、頭の中でイメージとして渦巻く。この点で、小説を読むことと音楽を聴くことは似ている。
——やがて絵の方に行く訳ですが、奈良さんが高校生時代に知人から画集をプレゼントされたときのことを、後に「文字でないものをどう読むか、それは音楽を聴いてきた『耳』を『眼』にシフトすればいいだけだった。音楽を聴いて得られるような感情を絵から享受できることはコロンブスの卵のような驚きだった」と述べています。この感覚は興味深いです。
絵は昔から好きだったけど、絵をより深く見ようとしたときイメージが湧きます。このイメージが形になったのが目の前にある絵なのだな、と。同じように小説から受けるイメージが形になったのが文字の配列です。ただ、自分は文字や言葉をうまく扱えない。自分の言葉をあまり信頼してないというか、自分の作品の説明をしてもちょっと違うなと思う。だからいま、絵画という表現になっているのかと。

——奈良さんは20歳のとき、初めて外国へ旅行されましたが、なぜヨーロッパだったのですか。
近代美術はパリが中心なので、最初に行くならパリをはじめとするヨーロッパと思ったからです。町に美術館があれば必ず入りましたが、結局、ヨーロッパ自体が美術館だという思いを抱きました。むしろ、行く先々で泊まる安宿で出会う人たちとの会話が面白かった。戦後、日本には米国からさまざまな情報が入っていたから米国人とは話題の土俵があったけど、欧州の人にスヌーピーの話をしても通じない。また、映画『風とともに去りぬ』は知っているのに、同じヴィクター・フレミング監督の『オズの魔法使い』は知らないとか、そうしたズレが面白く、またいろいろなことが見えてきた。富士山からものを見るのと、エベレストからものを見るのとではまったく違うことを、日本を出て気付きました。
——得たものは大きかった訳ですね。
ヨーロッパで3カ月間、美術館に入り、石の町を歩き回って帰ってきたとき、それまで自分は劣等生でコイツには敵わないと思っていた人たちが小さく見えた。また、明治時代の日本人が数年の付け焼刃で学んできた日本の油絵が貧弱に見えた。自分はどういう目で美術を見ていたのだろうと改めて思いました。美術というカテゴライズされた世界を超えた、もっと大きな世界に気付いた。名前が知られている画家が全部素晴らしいわけでない。音楽も流行っているからいいわけではない。いろいろ価値観が変わったのがこの旅でした。
消えた男の子 そのわけ

——女の子を描き始めたのはいつ頃ですか。
大学の卒業制作は2枚提出で、1枚は男の子、1枚は女の子を描きました。そこから始まるのだけど、当時、人物は風景の中にいた。大学院の2年間は人物のいない絵などを描いて、実験のようなことをしていました。大学院の終わりの頃に人を描き出して、留学でドイツに行って風景がなくなり、2年目くらいにいまの感じになりました。
——男の子が残らなかったのはなぜですか。
ズボンを履かせなければならず、描くのが面倒くさかったこともあります。ただ、ドイツで描いた絵にはズボンを履いていない男の子がいるのです。おチンチンを出してオシッコしている男の子が時々出てくる。女の子はスカートを描いて、足が出ているだけでいいから描きやすい。それとヘアスタイルでいろいろなバリエーションができる。ただ、これも考えてやっていたのではなく、髪の毛を描くのが楽しかったということで、女の子が多くなっていったのじゃないかと思います。
——留学先にドイツ・デュッセルドルフのアカデミー*³を選びましたね。
単純に経済的な理由です。本当は英国に行きたかったのですが、ドイツは学費がタダだった。それといい先生が揃っていて、いい作家になっていく人がいた。向こうではアルバイトもしましたが、学生寮が2万円、電車、バスが学生証でタダ。眼鏡、医療費もタダ。物価も日本より安かった。学生天国でした。
——滞在された1988年から2000年は東西ドイツが統一され*⁴、ドイツが存在感を示していく時期でした。
ボクがいたデュッセルドルフは西独の西端で、みんな、統一を嫌がっていました。東独の人がきたらどうなるのだろう、と。いまは差がなくなっていますが、以前は着ているもので西の人か、東の人かが分かりました。また、東の人は駅のチケット自販機の扱い方が分からず、自動ドアにびっくりしたりしていました。
——ドイツ人はどんな人たちですか。
生真面目な人たちです。見本市の立て込みのバイトをしたときですが、一生懸命にやって予定より1時間早く午後4時に終わったので、一緒に働いていたドイツ人に「帰ろう」と言ったら、彼が責任者に「全部終わりました。ほかに何かやることはありませんか」と聞く。バカじゃないかと思いましたが、真面目なんです。郵便局も午後6時きっかりに閉まる。10秒、20秒遅れても入れてくれない。たまにいいよと言ってくれる人がいたら、その人がいい人なのです。真面目な人たちだから、役所に届けを出して、税金、保険を払うなど、決められたことをちゃんとやっていれば何も言われない。
*3 ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミー。奈良氏はここで画家・版画家・彫刻家であるドイツ人のA・R・ペンク(本名 ラルフ・ヴィンクラー)に師事した。
*4 1989年11月、東西ベルリンを隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊。翌年10月、東ドイツが西ドイツに併合される形でドイツの統一が実現した。
絵は自分との対話、でも人に届いている
——奈良さんは絵を通して、見る人にメッセージを伝えようと思っているのですか。
メッセージを込めるつもりはまったくなく、自分と対話する感じです。ある意味、作品は自分の自画像です。若い頃の作品はトゲトゲしかったり、孤独だったり、反抗的だったり、叫んでいたりするけど、最近は静かな画面になっている。描くときにいつも思うのは、キャンバスは鏡のようなもので、そこに自分が写っている。実際は写っていないけど、そこに写る自分をなぞっていくことで絵ができてくる。それがたまたま女の子の形をとったり、犬や動物の形をとったりするだけで、ほぼ9割は自画像を描いているつもりで、対話しながらやっている。だから、何か訴えたいことがある訳ではない。描くことで自分を保っているというか、自分自身が浄化されていくというか、怒りが鎮まって平安な気持ちになれる。だからボクの場合、誰か観る人に向かって表現活動するのとは違う。
——自分の作品にメッセージを込める作家は多いですよね。
ほかの作家と話して食い違うのはそのことで、多くが観る人ありきでやっている。こういうことを伝えたいとか、驚かせたいとか。ボクはまったくそんなことはなく、自分の腑にストンと落ちるものであればそれでOKなのです。でも、それが人々に届いていると実感しています。
——今の日本をどう見ていますか。
正直に言うと、いまの日本そのものより、地方の小さなところに目が向いています。以前は世界を知ろう、大きなものを知りたいと心がけてきたように思いますが、最近は地方をもっと知ることが自分には大事になっている。
——3.11が契機ですか。
そうですね。今、実家には母しかいないですけど、実家で余ったタオル、食器類など、いただいたお歳暮類を車に積んで被災地に持っていったりしました。「自分は何をしているのだろう」と思いながら。ボクがいま住んでいるのは栃木県の北の方なので、車で故郷に帰る時、福島、宮城、岩手を通りながらいろいろ考えるんです。いまは小さなコミュニティーで、顔を見知った仲間と何かができればいいと思うようになっています。

奈良美智なら よしとも
1959年青森県生まれ。84年第5期瀧冨士美術賞受賞。87年愛知県立芸術大学大学院修士課程修了。画家で彫刻家であり、睨むような表情の子ども像で知られる。88年当時の西ドイツに留学し、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーでA・R・ペンクに師事。94年からケルン近郊のアトリエで制作を行う。2000年に帰国。10年に日本人初のニューヨーク国際センター賞、13年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。17年豊田市美術館で大規模な回顧展「for better or worse」を開催。