瀧冨士美術賞 第8期受賞者
湯澤 幸子 YUZAWA Sachiko

瀧冨士美術賞 第8期受賞者:湯澤 幸子

瀧冨士美術賞 第8期受賞者
湯澤 幸子 YUZAWA Sachiko

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インタビュー

デザイナーにとって大切なのは与えられた空間にどんな物語を描くかを考えること、と語るのは、瀧冨士美術賞(現在の国際瀧冨士美術賞)第8期受賞者で、多摩美術大学環境デザイン学科教授の湯澤幸子さんです。訪れるひとのまなざしを誘う大型の公共施設から機能的でチャーミングな家具まで、枠にとらわれることなく、デザインの領域を広げてきました。多摩美術大学八王子キャンパスにある湯澤さんの研究室を訪れ、お話をお聞きしました。(聞き手・佐藤由紀、取材日・2019年8月)

空間に物語をデザインする

湯澤幸子さん
湯澤幸子さん、多摩美術大学八王子キャンパスの研究室にて。座っているのは簡単な操作で椅子にもなる踏み台。

——多摩美術大学で教えるようになったのはいつからですか。

 2004年から非常勤講師を始め、15年に教員になったので正式には今年(2019年)で5年目ですね。去年の卒業式では、私たちは同期生だね、と言って学生を送り出しました。

——学生たちに昔の自分を重ねることはありますか。

 ええ。といっても、私が大学で専攻したのは美術系で、ここは建築や設計が中心なので専門からいうと異色かもしれません。でも、考えてみると、ミケランジェロやダ・ヴィンチにしたって美術と建築を一体として考えていたと思うし、そんなに違わないのです。たとえば、システィーナ礼拝堂のすごいところは、天井画の一つ一つが空間全体の中でキーストーンのような役割を果たしつつも、建物全体としてダイナミックな構図を作っていることです。美術は空間の中で必然的に生まれてきたものなのだと思うようになって、空間をやりたくなりました。作品を見るだけでなく、その中に自分が入ってみたいという方向に興味が移って、いまに至っています。

——瀧冨士美術賞に応募したときの出願理由に「作品は空間を生かすものでありたい」と書かれています。空間は学生時代からのテーマだったのですか。

 そうです。ただ、職業として「あなたはインテリアデザイナーですか」と聞かれると、違和感があります。この大学ではみんな、自分は何をしたいのか模索している。そういう意味では、専門分野を限定しないで、いつも何かを探っていくような学生たちの姿が、自分に近い感じがしますね。

——デザインといっても、すごく広いということですね。

 そうです。たとえば、ここにある椅子は人間を支える構造物ですが、大きな公共の建物も私の中では同じ構造物で、規模が大きいか小さいかの違いだけなのです。棚に5分の1の人体模型を置いているのですが、家具を造るときなどの参考に使っています。これをうんと大きくしたらどうだろう、なんて考えたりしていると楽しいです。

——両端が曲線になっている作品がいくつもあります。

 メタモルフォーゼといって、変容という意味の記号として、水や空気や流れのような、変化するもの、形のないものを表現しています。学生時代以降、ずっと造り続けてきました。

「変容2018」
  「変容2018」

背中を押してくれた受賞

美術賞応募作品
瀧冨士美術賞応募作品

——瀧冨士美術賞に応募されたのはどういう理由ですか。

 制作のための資金が足りなくて苦労していたのです。材料費もかかるし、展示場所を確保したり、運送費などを捻出するため、いくつもアルバイトをしていました。中には地下の暗い場所で遺体を洗うといった仕事もありました。ちょうど西新宿に高層ビルが次々に建設されている時代で、高層ビルの窓拭きもやりました。私は高所恐怖症だったのですが、その日のうちにきっちりバイト料がもらえるというので、怖いのをがまんして山岳部の学生に混じって働いていました。

——受賞されて、どうでしたか。

 うれしかったですよ。奨学金はすぐ、次の制作に必要な画材を買うのに使いました。これで無理なアルバイトをせずに制作する時間が確保できるなぁと、ほっとしたのを覚えています。いまでこそ、学生向けのアワードができていますが、当時はほかになかったように思います。それも、奨学金は自由に使っていいという純粋な賞でしたから、ありがたかったです。

——自信にもなりましたか。

 そこまでは考えなかったと思うのですが、応援してくれる人たちがいるのだと思うと、背中を押される感じがしました。

——卒業後は就職したのですね。

 制作を続けたい気持ちはありましたけど、就職しました。母も働いていて、子どもの頃から経済的に自立するのが当たり前だと考えていたのです。収入がなければ生活できないし、生活できなければ制作もできない。誰かに頼りたくないし、頼れない。制作したものを売って食べていければ理想的かもしれませんが、制作しているときは売れるかどうかなんて眼中にないです。逆にいうと、純粋な気持ちで制作しているのだから、そういう自分を守るためにも、経済力のある自分がいなきゃいけないと思っていました。瀧冨士美術賞はきちんと作品に向き合っていれば見てくれる組織もあるのだと教えてくれましたが、その主催団体も経済活動をしてその利益の一部を文化振興に振り分けているわけですからね。

——油絵を専攻している学生さんだと、就職も大変だったでしょう。

 就職活動に関する情報が皆無で、開始も夏休み明けと出遅れましたが、短大生の妹にアドバイスをもらいました。たまたま10月頃に2次募集があって、入社したのがデザイン、設計、施工をする丹青社という会社でした。主に美術館のような文化空間や商業施設を造っています。私は設計部に配属されましたが図面はまったく描けないし、使えない社員だったと思います。みんな多忙で、初歩から丁寧に教えてもらうわけにはいきませんから、自分から行動して、現場へ行って、できることを増やしていくしかなかったですね。躊躇せずに、おろかな質問をしながら、とにかく仕事を覚えるのにがむしゃらでした。

——個性を活かす余裕はなかったのですね。

 基礎的なレベルに達しないと、自己主張しちゃいけないと思っていました。周辺の人たちに自分の考えを納得してもらうにはものすごく努力しないといけないことも分かってきたし、建築に関する法規を勉強したり、建築士の資格を取ったりしなければならない。その一方で、自分の制作は必死にやり続けていました。

エポックメイキングとなった仕事

「ジョン・レノン・ミュージアム」
「ジョン・レノン・ミュージアム」
事業主:大成建設(株)、展示設計・施工:(株)丹青社
撮影:ヴィスタジャパン、廣崎節雄

——注文に応じる時期を経て、自分の創造性を発揮できると思えたのはいつでしたか。

 2000年の「ジョン・レノン・ミュージアム*¹」を経験してからですね。この企画が実現したのは、いくつかの偶然が重なった結果なのです。というのも、仕事を始めて10年くらいたったとき、ドイツ在住の尊敬する現代美術作家の那須弘一さんが一時帰国する間、自分のアトリエを使っていいと言ってくれました。ベルリンの壁が崩壊した後の混沌さに惹かれて、ぜひ行ってみたかった。そこで、会社を辞める覚悟で上司に相談したら、休職を認めてくれたのです。一時帰国したとき、会社にあいさつに行くと、オノ・ヨーコさんの仕事があるのだけどどうかな、と打診されました。

——断れない仕事だったですか?

 そう、魅力的でしたね。1年間休職する予定を4カ月で打ち切って、復職しました。さいたまスーパーアリーナの一角に10年間だけ開館するというミュージアムで、世界中のアーティストたちが興味をもって来てくれるような精神的な核づくりをしたい、というのがクライアントの考えでした。私は展示物と人、空間と時間の関係をどうデザインするかを考えました。つまり、空間作りの脚本といってもいいでしょう。階段を上ったところの天井にあるのはごくごく小さな「YES」という文字で、ふたりの出会いのエピソードから生まれたものです。スクリーンの上に、ヨーコさんの詩集『グレープフルーツ・ジュース』にある「地球が回る音を聴きなさい。」といった言葉が浮き上がり、それが消えて、別の言葉がジュワーと浮かんでくる仕掛けでした。展示を見るだけでなく、聴覚や触覚など五感で感じてほしい。その場にいることで、いくつもの出会いがもたらされるようになればいいな、と思っていました。大きな挑戦でしたが、ミュージアムを訪ねてくれたヨーコさんが「ありがとう」と言ってくれて感動しました。このミュージアムで2002年の日本ディスプレイデザイン賞の奨励賞をいただき、私にとってはエポックメイキングな仕事になりました。

「ジョン・レノン・ミュージアム」
「ジョン・レノン・ミュージアム」のスクリーンに浮かぶオノ・ヨーコの言葉
撮影:ヴィスタジャパン、廣崎節雄

*1 さいたまスーパーアリーナの一角に設置されたジョン・レノンをテーマとした期間限定の展示施設。ゆかりのギターや衣類やメガネなどの品々も展示された。

——2005年にディスプレイ産業大賞を受賞された「酒田夢の倶楽(くら)*²」も、忘れられない企画だったのではないですか。3年がかりの大プロジェクトだったそうで。

「酒田夢の倶楽」
「酒田夢の倶楽」
「酒田夢の倶楽」
事業主:酒田市、インテリアデザイン・展示内装および演出工事:(株)丹青社
撮影:新 良太

 明治期に建てられ、いまも現役で残っている山形県酒田市の山居(さんきょ)倉庫の一角を、昔のたたずまいを残しつつミュージアム、ショップ、カフェとして再生する仕事でした。木格子の隙間から見え隠れする景色の変化は、訪れる人のまなざしを誘っています。昔の工法に近いやり方で改修するのは新しく建てるのより難しいのですが、やりがいがありました。実は、設計だけでなくミュージアムの学芸員のような仕事、いわゆるキュレーションも経験したのです。展示品に使える予算が限られていたこともあって、土地の人たちに協力を仰ぐことになり、担当の方と一緒に旧家を1軒ずつ訪ね、頼んで回りました。そうして寄託してもらったのが、貴重な絵図や着物などです。酒造りが盛んだった土地柄もあって、すばらしい酒器類も貸してもらい、殿様をも凌いだという酒田の民衆の力を感じました。完成してしばらく経ちますが、いまどうなっているのか、いつか訪ねたいと思っています。

——仕事をする上で、何かルールのようなものは決めていますか。

 デザイナーの役目は形や色を決めるものと思われがちですが、形を造る前にその空間にどういうテーマや思いをこめるかが大事だと思うのです。形にならない部分のストーリー、物語を話し合って、お互いに納得して造っていきたい。いつも思っているのは、その場所、そこにいる人、これから来る人、そこにすでにあるものなど、あらゆるものがいい関係を作るのだということです。造ったら終わりではなく、時間とともに変化することも受容したい。その意味では、これもメタモルフォーゼですね。

*2 米貯蔵庫の山居倉庫を改修して造られた観光物産館。ミュージアムには酒田の豪商本間家が江戸時代に造らせた亀笠鉾なども展示されている。

大事なことを気付かせてくれる手仕事

——軽井沢に「ASSOCCA STYLE」という山小屋を造られたとか。

 イタリア語のようですが、私の口癖の「あっ、そっか」をもじったものです。気付きの生まれる場所という意味を込めました。ここで、制作もしています。

——薪ストーブがありますね。

 薪も燃やせますが、おばあさんになったときに薪割りはできないだろうなと考えて、細かい木屑を固めたペレットを使えるようにしています。ストーブは大量の空気を吸い込んで煙突から排出するので、巨大な空気循環器のようなものです。部屋のにおいなどもみんな吸い上げてくれます。太陽光を使った換気システムもあって、夏は暑すぎず、冬も寒すぎずという自然にかなった住まいです。

——家具も素敵です。

 椅子や棚など、大半の家具を自分で造りました。研究室にあるこの踏み台には、ひもの蝶番(ちょうつがい)がついているでしょ。蝶番というと大半が金属製ですが、それでは面白くないので、屏風などに使われている布にしてみたら、チャーミングかなと思ったのです。今、いろいろな家具の試作品を造っていて、将来は市販もしたいなと考えています。

——大学の紹介欄で、学生たちに「アタマと手を両方使って、人の意識に作用するメッセージを発信できる人になってほしい」と書いておられますが、手も重要なのですね。

 手で描いているうちに、意識していないものが生まれる。私たちは手仕事をしながら気付くのですね。行き詰まったときなどにも、手が助けてくれます。手というものが頭で考えたことだけに従う奴隷になってしまったら、硬い感じの作品しかできません。実際に経験してみないと、見えてこないことは多いのです。

——湯澤さんはどういう先生なのですか。厳しい、それとも優しい?

 学生に教わることが多くて、ほとんどの場合は反面教師ですね。自分の学生時代のことを考えると、今の学生たちはよくできるので感心します。

——いいところをみつけるのも仕事ですか。

 もちろんそうですが、それだけでなくて、私自身はこういうふうに世界を見ているけど若い人たちはどう捉えているのか、とても興味があるのです。自分が思っていることは伝えるようにしていますが、学生たちの考えや感じ方をもっともっと知りたい。それが、大学で教えている大きな理由の一つです。
 

「ASSOCCA  STYLE」
「ASSOCCA STYLE」の内部  撮影:尾鷲陽介

湯澤幸子ゆざわ さちこ

1965年東京生まれ。87年第8期瀧冨士美術賞受賞。88年東京造形大学造形学部美術学科卒業、丹青社入社。2015年に独立。同年、多摩美術大学美術学部環境デザイン学科准教授、2020年同学科教授。「ASSOCCA STYLE」主宰。大型の公共施設から機能的家具まで、枠にとらわれることなくデザインの領域を広げてきた。日本郵便JPタワー学術文化総合ミュージアムインターメディアテクで日本空間デザイン賞2013年大賞、日本経済新聞社賞、グッドデザイン賞、JCD金賞、アジアデザイン賞2013ブロンズ賞など受賞多数。
 


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