画家の大小島真木さんは国際瀧冨士美術賞第29期(2008年)の受賞者です。地球環境や人と自然と宇宙についての思索を、アートという手段をもって深めている若手芸術家です。当協会は2020年の交通総合文化展の招待作家として「土のアゴラ/ Agorá of Multi species」と題した、粘土で造形したさまざまなモチーフの陶の作品を出品していただきますが、絵画から出発して幅広い表現活動をしてきた彼女にとっても陶器を素材に使うのは初めてとなります。(聞き手・西川恵、取材日・2019年12月)
鯨の亡骸から得たインスピレーション


——大小島さんは2017年1月から3月まで約2カ月半、フランスの環境調査船タラ号*¹にアーティストとして招かれ、太平洋を航海しました。このインパクトは大きかったですか。
はい。この3年間はタラ号にいい意味で揺さぶられ続けてきました。航海中は本当に多くの出来事、出会いがありましたが、なかでも強く印象に残っているのは、北太平洋の海に浮かんでいた鯨の亡骸との出会いです。その亡骸は白く巨大で、そこには多くの鳥が群がっていて、鯨の屍肉をせっせとついばんでいました。鳥だけではなく、魚やサメ、数多くの生物たちもそこに集っていました。作家は衝撃的な出来事に触れたとき、それを自分の中で咀嚼し、その咀嚼したものをどう表現に結びつけていけるのかと考えずにはいられない種族だと思っています。私にとってその鯨の亡骸との出会いは、まさにそういう出来事だったのです。
そもそもタラ号の日常はふだんの暮らしとは異なる体験に満ちていました。船長や船員、乗船している科学者たちと対話し、海洋生物や海そのものの不思議についていろいろ教えてもらう日々はただでさえ刺激的で、そうした非日常的な環境下において、それまで見たこともなかったような大きな生物の亡骸と出会ったのです。それ以来、私はその亡骸に乗り移られたかのように、やがて「鯨」シリーズとして結実する作品に向かって、思考と制作を始めていきました。見てしまった者としての責任……とまで言ってしまうと大袈裟かもしれませんが、私は確かにあの亡骸から何かを受け取ったので、そこにきちんと応答したいと思ったのです。

——具体的に説明してくれますか。
鯨の亡骸を見て以来、鯨という生物種、また鯨にまつわる現象などを調べるようになったのですが、そうしたリサーチの中でイメージはますます膨らんでいきました。そもそも海というのは「生命のスープ」と呼んでいいものですよね。私たち生命は皆、海から生まれました。鯨もまた同じです。ただ、鯨は死ぬと、そのとても大きな体が分解して、海水へと溶け出し、膨大な量の命の源へと変容していくのです。だから、鯨は海の一部であり、同時に海が鯨の一部であるとも言える。これはすごく面白いことだなと感じます。
また、鯨が深海に沈んだ後、その亡骸を餌にして周囲に新しい生態系ができる鯨骨生物群集*²という現象もあるのですが、その光景はまるで亡骸を1つの家として多様な種が共棲しているようでもあって、とても美しいんです。こうした共棲現象は他にもありますよね。たとえば私は珊瑚も好きなのですが、珊瑚礁もまた一つの家のようです。珊瑚は動物であり、植物であり、地形でもあるような不思議な存在で、その身体に大量の藻類を棲まわせていて、それらの藻類が起こす光合成で生まれたエネルギーが送られることで生きています。
こうしたことを調べていく過程で、プランクトンのようなミクロな存在が果たしている重要な役割などについて知ることができたのもよかったです。たとえばエミリアナ・ハクスレイと呼ばれる植物プランクトンが大増殖(ブルーム)を起こすと、そのプランクトンを食べた生き物のフンも大量に海底に堆積します。それが地質学的な変化を遂げることで、ドーバー海峡のような白亜の大地となることがある。生が営まれる大地が、喰らい喰らわれる関係性の連鎖の中で作り出されていくのです。
あるいは海そのものがいろいろな生き物が棲まう大きな家であるとも言えますよね。すると、そもそもその家が一体どうやって作られてきたのか、また、それがどのような生態学的循環の中にあるのかなど、考えることはたくさんあります。だから、私にとってこの3年間は、鯨の存在を1つの中心テーマとして、そこから派生してさまざまな生命、非生命の繋がりを考え、創作してきた時間だったように思います。
*1 ファッションブランド・アニエスベーが2003年から主宰する海洋の環境調査と保護のための活動で、拠点となる船の名。プロジェクトごとに応募者の中から選ばれた科学者やアーティストが数ヵ月タラ号で生活を共にし、それぞれの立場で活動を行う。
*2 深海底に沈んだ鯨の死骸を中心に形成される生物群集のこと

イメージを勉強で裏付けることの大切さ

——地球と宇宙を理解する上で、鯨がメッセンジャーに、別の言い方をすると舞台回しの役を担ったということでしょうか。
そうですね。たとえば2019年の瀬戸内国際芸術祭では、インドの少数民族ワルリ族の伝統壁画を手掛けるワルリ3兄弟や、香川県・粟島の住民の皆さんと一緒に、洞窟と洞窟壁画、そして鯨の骨格を表した立体作品などを共同制作しました。その際、イメージしていたのは「土と海が交わる場所」です。そのイメージもまた、あの鯨の亡骸によって導かれたものだと思います。
ところで、その洞窟で私たちは鯨の骨をつくってみたわけですが、骨というものも調べていくととても面白い存在なのです。私たちが生きるためにはミネラルが必要ですよね。ミネラルは海中ではいたるところに存在していたため蓄える必要がなかったのですが、私達が地上にすみかを変える過程で体内にミネラルを保持しなければならなくなり、骨とはその保持のために変化してきたものだとも言われているんです。つまり、骨は私たちがミネラルを蓄えるための生命維持装置であり、私たちの体内に存在する「固形の海」だとも言えるのです。
ただ、この瀬戸芸での展示で鯨シリーズにはひとまずの区切りをつけました。思考はぐるぐると螺旋を描くように回りつづけていくので、関心の対象を変えていくことに抵抗はありません。たとえば最近は皮膚に関心があります。地球にとってのオゾン層を私たちの身体にとっての皮膚に重ねてイメージしてみることができるのじゃないかとか、あれこれと考えているところです。
——大小島さんは単に制作するだけでなく、海洋生物学、文化人類学などいろいろ勉強し、地球や宇宙に対する認識と思考を深めていっていますね。
昔はもっと抽象的に物事をとらえていたのだと思います。ただ最近は、そうした抽象的なイメージを具体的な知によって裏付けていくことも同時に行うようになっていて、海洋学、生物学、人類学などを少しずつ学びながら制作をしています。本も読んでいますが、他にも文化人類学の研究会の末席に加えてもらったり、シンポジウムなどに参加させていただいたりもしています。各分野の第一線の研究者の方々のお話は本当に面白いし、自分自身が抱いていた直感的なイメージと、科学的、実証的な知が重なり合っていくことにも喜びを感じています。
フランス人との捕鯨をめぐる議論
——大小島さんはフランスのパリ水族館を会場に個展「鯨の目」をもちました*³。反応はどうでしたか。
鯨という存在の捉え方が日本におけるものとはまた違って、その反応の差異を興味深く感じました。たとえば日本で鯨の作品を展示しても捕鯨の話はほとんど出ないのですが、フランスではまず「鯨を殺すことをどう思うか」といった鯨食文化についての質問をされます。展示を行ったのが日本が商業捕鯨を再開したタイミングだったのでなおさらでした。フランスで展示するということはそういうことだと、あらかじめ覚悟はしていましたけど。
——フランス人には説明したのですね。
もちろんです。私はきちんと話をしたいと思っていましたから。日本の古式捕鯨では、鯨をモリで突き、捕獲したらすべての部位を余すことなく使い、人々の間で分け合い、頭骨を海に帰していました。生き物に対する敬意が、命をいただくこととセットになって、日本の捕鯨文化は成り立ってきたんです。実際、あちらこちらに鯨を祀った神社や記念碑があり、儀式も行われています。フランスではそうした日本人の鯨への向き合い方を説明しました。異国の地でそうした説明をすることで、私自身もあらためて捕鯨が日本の風土の上だからこそ成り立ってきた文化だということを実感させられました。鯨油のために鯨を獲ってきた欧米では、歴史の違いゆえに捕鯨の捉え方において日本とズレがあるんです。そうしたところを捨象して、捕鯨を賛成・反対の二極論で考え、そのいずれかの立場に固執するというのは少し違うのではないかなと感じています。
——理解してくれましたか。
環境系のテレビ局も取材にきてくれて、英語でいろいろと話しました。しかし「私は手離しで賛成しているわけではないけど…」と言った部分を、「私は捕鯨には反対」と都合よく書かれてしまいました(笑)。ただじっくりと話していく中で「分からないけど分かる気がする」と言ってくれた人もいました。こうした経験もあったので、鯨を食べるということについて、日本人もまた伝統という言葉にただ逃げ込んでしまうのではなく、しっかり異文化の人たちと語り合っていかなければいけないと思うようになりました。
*3 フランス・パリ市内にあるパリ水族館(Aquarium de Paris)で2018年12月~19年1月の間開かれた
アニミズム的な世界観の重要さ
——捕鯨はある意味、歴史的、文化的なズレでもありますね。
日本にはアニミニズム的な感覚がまだ少し残っていて、この地球や宇宙において人間だけが主役なのではないということが、ある種の体感、リアリティとして得やすいと思うんです。しかし、それは歴史のステージの問題でもあって、すでにそうしたアニミズム的な感覚からは遠く隔てられてしまった文化もあります。もちろん、さまざまな価値観があっていいんです。とはいえ私としては、人間と他生が共に生きていく上では、アニミズム的な世界観というものがとても大事だと思ってもいて、だから「モア・ザン・ヒューマン(more than human)=人間以上」の絡まり合いの中で私たちが生かされているということを、様々な形で表現していきたいなといつも考えています。
——前に大小島さんと話したとき、フランスの文化人類学者レヴィ=ストロース*⁴の話が出ました。そのとき、そういえば大小島さんの作品はレヴィ=ストロースに通じると思ったのを記憶しています。
別のインタビューでもそう言われたことがあります。異なるものを繋ぎ合わせていくやり方や、ピースから全体が出来ている手法がレヴィ=ストロースの言うブリコラージュ*⁵のようだ、と。とはいえ、レヴィ=ストロースにもともと影響されていたというわけではありません。そのように言われることがあったので、自分の作品をより深く理解するためにあらためて著作を読み返してみたところ、とても面白くて、共感するポイントが多くありました。
*4 仏文化人類学者で、2009年に101歳で没。ブラジルの先住民調査に基づき、文化には優劣や未開・先進の違いはなく、社会の編成の違いがあるだけという構造主義の思想を構築した。
*5 Bricolage レヴィ=ストロースの用語で、一貫した計画によらず、有り合わせの素材、道具を適宜組み合わせて問題を解決していく仕方

描くことは思考すること
——世界は集合から成り立っている、人間中心でなくすべて平等、すべてそれぞれの役割をもっている、といったレヴィ=ストロースの相対主義的な概念は、大小島さんの作品と重なるように思います。大小島さんはいつ頃から画家になろうと思ったのですか。
絵は3歳から描いていましたが、画家になろうと考えたことは1度もありません。両親は介護と仕事に忙しくて、子どもにかけられる時間があまり多くはありませんでした。当然、子どもなので寂しさはあったのですが、そんななか、私は絵を描くことによって救われたのです。なので、絵をやめようと思ったこともなければ、プロフェッショナルになろうとかも考えたことがなくて、ただただ描き続けてきた結果、いまに至っている感じです。あるいは、私の中では絵を描くことと思考することとが直結しているような感覚もあります。自分の思考を書き留めるための方法として、私は絵という表現を使ってきたようにも感じているのです。
——文字でも書き留めるのですか。
もちろんです。思考ノートのようなものを個人的に作っていて、考えたこと、学んだことなどを色々と書き留めています。南方熊楠*⁶のノートのような、文字と一緒にドローイングが描きこまれたものですね。こうした思考ノートを纏めるようになったのは大学生の頃からです。それとは別にクラウド上のメモにも常に何かを書き留めています。
——大小島さんの作品をご家族はどう評価しているのですか。
父は展覧会があるとほぼ確実に来てくれますが、言葉で何か伝えてくるというよりは、暖かく見守ってくれている感じです。母は私の表現を面白がってくれています。私が高校や大学の頃は、作品のコンセプトを書くとまずは母に見せていました。母は言葉使いがおかしくないか、論理が破綻していないか、私が言いたいことがきちんと書き込まれているか、などをチェックしてくれました。いまある程度書けるようになったのは母に叩き込まれたおかげです。母は元新聞記者で、父は映像関係の仕事をしていました。思春期の頃、生死の問題や人間の意識について、あるいは「唯物論ってなに?」みたいなことを私が聞くと、母は寝る時間を削ってとことん話してくれました。母は学生時代、ロシア文学を専攻していたのですが、そもそものきっかけは高校生のときにドストエフスキーの「罪と罰」に強く感銘を受けたと聞いています。そこで、自分も何か人生をかけてやらなければならないと思い、以降、多くの本を読んで、多くのことを考えてきた人です。身近にそういう人がいたおかげで、物事について、その前提とされている部分から考えるということが自然と身につきました。
*6 日本の博物学者(1867~1941)。渡英し、大英博物館の閲覧室を拠点に、研究は民俗、生物、植物、人類、宗教、生態学など広範な分野に及んだ、数多くの英論文を「ネイチャー」などに発表し、欧米でも大学者として知られた。1929年には昭和天皇に進講し、粘菌標本を進呈した。
陶器制作の偶然性と快感

——当協会の交通総合文化展では招待作家として作品を制作していただいています。
いまは10月(20年)にJR上野駅構内で行われる予定の文化展に向けて、この湯河原クレアーレ工房で陶器を中心とした制作をしているところです。陶器はそもそも土を捏ね、火で生成し、鉱物を元にした釉薬によって彩られるものですよね。ここ数年、私は海をテーマに作品を造ってきましたが、その中で環境面や、生態学的にも海は土と繋がっているということを実感していたところでしたから、いま改めて土という素材を扱うことができていることは、制作自体がそうした円環の輪と重なっていくようで、とても面白いなと感じています。
また、工房で実際に土を捏ねてみたことで、土の手触り、感触の気持ちよさにも気づかされました。さらに、そうやって形成した粘土を火で焼くと、想像していなかったようなトランスフォーメーションが起こるのですよね。釉薬を掛けることによってもさらにまた予期せぬ変化が起こります。言ってしまえば、私の思っていた通りにはならないのです。素材そのもの、エレメンツそのものに潜んでいる偶然性に、ある程度、作品を委ねていく必要がある。こうした偶然性が制作プロセスに加わることで、私の思考や意図を超えた造形美が生まれることもあり、毎日が驚きの連続です。
上野駅の展示では、頭部を陶器で、身体部分を実際の土でつくった生物のオブジェも発表したいと考えています。陶器の制作には水、火、木、金、土、全てのエレメンツの力を借りる必要があり、だからこそプリミティブな魅力があるんです。そうした陶器を用いて生物を制作することを通じ、私たち自身の身体もまた土のようなものであるということ、決して自立などしていなくて、様々な存在に依存し、それらと絡まり合いながらあるということを改めて感じていますし、また、そうしたイメージを作品によって表していきたいと思っています。

——ここ何年か美術館に足を運んで感じることは、大きな宇宙の中の人間とか生物とか、大状況の中の微細な存在をテーマに取り上げた作品が増えているように思います。
そういうところに意識を向けていかざるを得ないような現実があるんだと思います。プラスチックの問題もそうだし、化石燃料による温暖化もそうです。海水温度の上昇によって珊瑚は死滅し、森林伐採によって種の多様性は失われています。それらはこれまで私たちを生かしてきたものたちです。私たちとは一体何者なのか、何を喰らい、何に喰らわれてきたのか、私たちは何とどのように関わり、どのように関わってこなかったのか、そうしたこと一つ一つを逐一問い直さざるを得ない時代になっているんだと思います。美術の世界もまたそうした問いを受け止め、応答しようとしているのだと思います。

大小島 真木おおこじま まき
1987年東京生まれ。2005年女子美術大学入学。08年国際瀧冨士美術賞。11年同大学大学院修士課程修了。17年に海洋調査船タラ号のプロジェクトに参加。主な個展に「鯨の目」(パリ)のほか、南沢氷川神社に天井画を奉納、多摩六都科学館のプラネタリウム全天88星座の原画を制作した。09年トーキョーワンダーウォール賞、11年福沢一郎賞、14年テラダアワード賞、VOCA奨励賞など受賞多数。