瀧冨士美術賞 第1期受賞者
青木 野枝 AOKI Noe

瀧冨士美術賞 第1期受賞者:青木 野枝

瀧冨士美術賞 第1期受賞者
青木 野枝 AOKI Noe

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インタビュー

 国内外で活躍する彫刻家の青木野枝さんは瀧冨士美術賞(現在の国際瀧冨士美術賞)が創設された1980年の第1期受賞者。彫刻から出発しながら版画などの分野にも活動領域を広げ、アートを通じて知り合った地域の人々との交流を通じて聞き取りにも取り組んでいる。世界を視野に据えながら、自然体でしなやかなアーティストである。(聞き手・西川恵、取材日・2016年10月)

完全な男社会だった彫刻

青木野枝さん
青木野枝さん
瀧冨士美術賞応募作品
瀧冨士美術賞応募作品

——昔から芸術家になりたかったのですか。

 小さいころ、「何になりたいの」と言われても分からなかった。子供は「運転手さんになりたい」とか、「看護婦さんになりたい」とか言うものですが、私は職業では分からなかった。勉強していい会社に入っても幸せになれるとは思えなかった。素敵な人にはなりたかったけど、どうしたらなれるのか分からない。自分が何をやりたいか追求しながらいきたいと思っていました。お医者さんにはちょっとなりたくて、いまで言えば「国境なき医師団」のように人の役に立ちたいなと思っていました。

——高校で芸術の方向に進まれましたね。

 芸術でなくても良かったのです。石神井公園という自然の多いところに住んでいて、父も植物が好きだった。選択肢としては都立の農業高校か、園芸高校か、芸術高校の3つがあり、何となく興味があった芸術高校を選びました。高校に受かった時点でコースを決めなければならず、彫刻、日本画、油絵、デザインの中から、デザインは違う、日本画と油絵も違うと落としていって、彫刻が残りました。農業に進んでいたら、それはそれで結構楽しかったと思います。

——高校ではどうでしたか。

 私は絵が下手で、石膏のデッサンをやらされると、絵の中に収まらない。必死に描いていたのですが、全くうまくならなかった。彫刻科の人は立体に起こすことはできるけど、結構、絵が下手なんです。ただ石を彫ることは、絵画のように技術の約束事がなくどんどんできる。これが面白かった。

——大学でも女性で彫刻する人は少なかったでしょうね。

 完全な男社会で、教授が「女性は卒業したら結婚しなさい」という世界でした。私の少し上の世代ではウーマンリブやフェミニズム運動がありましたが、私としてはそこで争いたくなかった。彫刻や美術はもっと自分の問題であって、男であれ、女であれ、造るのは人間という世界です。その意味でも彫刻はいいなと思っていました。

——1980年、4年生のときに創設されたばかりの瀧冨士美術賞を受けられました。どういうきっかけだったのですか。

 3年のときから鉄をやっていて、材料の鉄をいっぱい買いたいな、と思っていました。たまたま学生課に行ったらポスターが貼ってあって、受賞すると30万円の奨学金をもらえる。しかもレポートを出せばよく、奨学金は何に使っても構わない。受かるとは思ってなかったので、受賞した時はやった〜と。奨学金で鉄板を買って、すごく助かりました。

塊でなく風が通る彫刻を

「Untitled(NA81-2)」
「Untitled(NA81-2)」/1981年/神奈川県民ホールギャラリー

——青木さんにとって転機というのはありましたか。

 78年、20歳のときに1カ月半ほど欧州を旅しました。貯めたアルバイト代での貧乏旅行でしたが、本当に楽しかった。スイス、英国、フランス、スペインを回りましたが、ミニマルアートのドナルド・ジャッド*¹など本物のものがいっぱいあって、日本で見られなかったものがたくさん見られた。感じたことは、美術史は男性が作っているのだということと、人、みんなそれぞれで、好きなことをやっていいんだな、ということです。ガウディ*²などは美術史からポーンと飛び出している。この人たちはやりたいことをやっている。自分もコンセプトに縛られず、好きなことをやろうと思いました。

——やりたいものを見つけたのはいつですか。

 81年の卒業制作では、大学正門にミニマルアートっぽい四角い箱を建てて塞ぎ、隙間から向こうが見えるコンセプチュアルな作品を造りました。しかし、そういうことをやっても私じゃないなと感じました。あの頃の大学は4浪が普通で、女性はほんの数人。現役で入った私などは馬鹿にされる。「ミニマルアートとは」、「もの派」*3とか、「え、李禹煥(リー・ウーファン)*4を知らないの」とか言われる。そんな世界で必死に理論武装しようと思ったけど、私には向いてない。それでもそんなものを造ったのですが、自分はこういう世界ではないという思いがありました。修了制作では、鉄で中に空間があるようなものを造りました。その頃気になっていたのがタワー、塔みたいなものです。仏舎利のような小さなものを収めるだけなのに高い塔を造るわけで、それがすごく面白く思えた。建築だけど私には彫刻に見える。中に空間があって自分がその周りを歩けるようなもの、その中をすり抜けるようなものを造りたいな、と。その頃彫刻というと塊だったけど、もっと風が通るようなものを、と思いました。この修了制作でやりたいことが分かった気がしました。

*1 米国の画家、彫刻家、美術評論家。ミニマル・アートを代表するアーティストの1人。

*2 アントニオ・ガウディ スペイン・カタルーニャ出身の建築家。バルセロナの教会サグラダ・ファミリアなどその作品群はユネスコの世界遺産に登録されている。

*3 60年代末~70年代初めに興った日本現代美術の動向。ほとんど加工しない素材を単体、もしくは組み合わせて作品とする。代表作家に李禹煥、菅木志雄、関根伸夫らがいる。

*4 大韓民国生まれで、日本を拠点に活動。「もの派」を理論的に主導した。

「Untitled(NA92-3)」
「Untitled(NA92-3)」/1992年/豊田市美術館(愛知)
「Untitled(NA95-7)」
「Untitled(NA95-7)」/1995年/国立国際美術館(大阪)

手を使って考える

制作中の青木野枝氏
制作中の青木野枝氏

——芸術を一生の仕事にと思ったのはいつごろですか。

 大学院に進んだときも美術で食べていけるとは思えなかった、特に彫刻は。でも続けたいなと、そんな軽い気持ちでした。大学を出てから年に何回か個展をやったり、そのうち企画も来るようになりましたが、食べていけるわけじゃなくて、ほかのことでお金を稼ぎながらやっていました。一生彫刻をやっていこうとは思っていなくて、何かほかにいいものがあったらそちらに行くだろうな、とも思っていた。しかし35、6歳の頃でしたが、自分は手を使って考えることが好きだと気付きました。鉄を溶断し、切っていくことを繰り返しながら前に進んでいく。これが向いているな、と。

——鉄を切っている時は何ごとか思索しているのですか。

 朝9時から夜の6時まで、お面をかぶってガスで鉄を溶断していくのですが、何も考えないで、ただただ鉄を切っている。無になっています。同じことを繰り返すことで少し違うところにいける感じがする。元養鶏場をアトリエにしているのですが、アトリエではパーツでしか見られず、美術館で組んで初めて作品となります。別に失敗とか成功ではなく、鉄に向かって誠実に作業をしていれば絶対に大丈夫という安心感があります。

——鉄を切りながら、発送が湧くということはないのですか。

 なくはないですが、スケッチをざっと描いたら、あとは切るだけ。考えても「何を食べようかな」とか、とりとめもないことです。考えない方がいいかなとも思います。ある時、よく知られた画廊から企画が持ち込まれました。「こんなすごい画廊でやれる」と気負っていろいろ考えましたが、でき上がったものを見るとすでに私の頭の中にあるもので、「これ、私わかっている」という感じで、魅力がない。私は自分が驚くものを見たい。ですから美術館でパーツを組み立てながら、ここにつけちゃえといった感じでやっています。「何かいいかもしれない」と独り言を言ったりして。私を知っている人は「またかよ」という感じで見ている(笑)。

——最初のスケッチにはないものを加えるということもあるのですね。

 よくあります。本来つけるものを別のところにつけちゃえ、と違う場所に持っていってその場で溶接する。その時々によって、という感じです。

作品を社会の風に通すことの大切さ

「空の水/青」
交通総合文化展2017招待作家作品「空の水/青」

——毎年個展をしてきたのは発表の場をもちたいということですか。

 見せたいというより、社会の風に通すことがとても大事で、自分だけで作品を持っていてはダメな気がする。ある意味、美術は縮まっていく世界で、自分だけでやっているとどんどん狭くなっていく。社会の風にさらし、世界にちらっとでも「こういうことをやっているんです」と見せることが大事。やらないと次が造れない。やると次にやることがなんとなく見えてきて、その先に進める。母親に借金したり、アトリエの大家さんに滞納したりしながらでも、年に何度も個展をやってきたのはそのためです。

——青木さんは新潟県や瀬戸内の豊島でお年寄りの聞き取りをしていると聞きました。

 いまはちょっと滞っているのですが、きっかけは十数年前にトリエンナーレで新潟の十日町に行ったとき、山の水を集めたプールがあって、そこに作品を置きたいなと思いました。一升瓶と和菓子をもっていって、地域の集まりで「子どもさんとワークショップをやりたい」「ご迷惑をかけません」とお願いしました。みんな黙っている中で1人の方が「迷惑かけないならやってみれば」と言ってくれました。それ以来、稲刈りや田植えのときに行ったりしてすっかり仲良くなったのですが、そこに住んでいる人たちが素晴らしい。80代の人が馬喰の世界の話や、牛を引いて山に行った話などをしてくれる。瀬戸内の豊島にもトリエンナーレで通っているのですが、ゴミの不法投棄を覆したという自負を持ち、人生の辛さを分かっている人が多く、それでいて不平も言わない。スックと立っている姿も美しい。普通のおじいさんだけれど、尊敬してしまうような人が多い。日本はこういう人たちのお陰で成り立っているんだな、と感動します。しかし、高齢化で村が消えかかっている。このおじいちゃん、おばあちゃんの話はお孫さんは聞かないだろうから、第三者が聞いておかなければと思ったのがきっかけです。
 

「空の水XIV」
「空の水XIV」/2007年/神奈川県立近代美術館
「空の水/苔庭」
「空の水/苔庭」/2012年/越後妻有アートトリエンナーレ(新潟)
「立山/クラクフ」
「立山/クラクフ」/2014年/

Museum of Contemporary Art in Krakow

——外国での展覧会開催は?

 2014年から15年にかけ、スイスのチューリッヒ、ポーランドのクラクフ、ドイツのハレでやりました。アウシュヴィッツに近いクラクフの現代美術館は、映画『シンドラーのリスト』にも出てくる工場をリノベーションしたものだったので、ナチスの、人からつくる石鹸の話から着想を得てつくった石鹸を積んだ作品を出しました。

——外国で印象に残る感想はありますか。

 ロンドンで講演会をやった時、素材をメインにしてやっていて非常に日本的な作品ですねと言われました。あー、そうなのか、と私の方がビックリしました。

世界を見つめながら創作を

「原形質」
「原形質」/2012年/豊田市美術館(愛知)
「原形質/豊田」
「原形質/豊田」/2015年/豊田市美術館(愛知)

——日本の美術界の現状をどのように見ていますか。

 いまのアーティストは、分かっている人はすごく分かっていて、世界情勢と作品がリンクしていて、世界にどんどん出て行く。しかし、そうでない人は新聞も読まないし、好きなところしか見ない。二極化しています。自分にとって世界とはなんだろう、といつも疑問を持って勉強していく姿勢が大切だと思います。それと今の時代、若い作家がやりづらいと思います。私の頃は売れない、食べられないのは当たり前だった。今はそこそこ売れてたり、スターが出ている。そのせいか企画展でなければダメだとか、最初からスターになりたいと思い、じっくり自分の作品に取り組むことができなくなっている。画廊やキューレータのコマに使われてしまうケースも少なくない。身近で彫刻をやっている学生は派遣の仕事をこなしながらアパートとアトリエを借り、ギリギリでやっていて、「今日は朝ごはんたべないで来ました」と言う。彫刻はいろんな経費がかかるので、そんな状況ではとても続かない。 韓国や中国の富裕層は自国の作家が将来どう育つか分からなくても、いずれ自分の国に返ってくるから作品を買ってあげようという気持ちがある。日本のお金持ちはそういうところがない。世界的な芸術家が出ればそれだけ日本は強くなるのに、そのイメージが持ててない。

——若い芸術家を育てるため、何か助言はありますか?

 たとえば、日本交通文化協会は熱海と湯河原にまたがる地域に工房と関連施設を持っているので、若い作家にアトリエとして使ってもらい、湯河原の人々を巻き込んで展覧会をやるのも面白い。若い作家は社交性があるので、地域に住み着いてやっていけるのではないでしょうか。
 

「ふりそそぐもの/娯楽室」
「ふりそそぐもの/娯楽室」/2013年/大原美術館・有隣荘(岡山)
「ふりそそぐもの/旧あざみ美容室」
「ふりそそぐもの/旧あざみ美容室」/2013年/あいちトリエンナーレ

作品撮影:山本糾
協力:ハシモトアートオフィス

青木 野枝

青木 野枝(あおき のえ)

1958年東京都生まれ。80年、第1期瀧冨士美術賞受賞。81年、武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。83年、同大大学院造形研究科修了。彫刻から出発しながら、版画などの分野にも活動領域を広げている。国内外で個展を開き、「瀬戸内国際芸術祭」(香川県豊島)、「越後妻有アートトリエンナーレ」(新潟県越後妻有)などのグループ展にも数多く参加している。2000年、芸術選奨文部大臣新人賞、03年、中原悌二郎賞優秀賞、14年毎日芸術賞、17年中原悌二郎賞など受賞。18年から20年まで国際瀧冨士美術賞の審査員を務めた。

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