「1%フォー・アート」を日本に
外国で「パーセント・フォー・アート」制度*¹を使ってパブリックアートの制作に携わった日本のアーティストたちは、どのようにこの制度を受け止めているのだろうか。多摩美術大学の元学長、五十嵐威暢氏にお話を伺った。(聞き手・西川恵、取材日・2015年10月)
——五十嵐先生は米国でパブリックアートの制作に携わられました。

米国では1950年代始めにパブリックアートの機運が生まれました。やがてニューヨークのマンハッタンに抽象彫刻が出現するのですが、最初はトニー・ローゼンタール*²の彫刻作品で、次にイサム・ノグチ*³の「レッド・キューブ」という穴の空いた真っ赤な立方体作品が置かれました。私は1968年に留学した時に見る機会がありました。都市を元気づけ、都市空間の中にアーティスティックな景観を作る役割を果たしてきたのがパブリックアートです。トニーの黒いキューブの彫刻は米国で永久保存に指定された最初の抽象彫刻だと思います。
*1 「パーセント・フォー・アート」 公共事業の実施に際し、建設工事費のある一定の範囲内で芸術作品を設置するという考え方。何パーセントかは国や地域により一率ではない。
*2 トニー・ローゼンタール(Tony Rosenthal、1914年~2009年) 米国の彫刻家 シカゴ芸術学院で彫刻を学ぶ。公共空間に置くキューブなど抽象的な彫刻を多数制作し、「パブリックアートの伝説的人物」と呼ばれる。
*3 イサム・ノグチ(1904年~1988年) 米国の彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家、舞台芸術家。父が日本人、母が米国人。
——パブリックアートが芸術家やアーティストに及ぼしているメリットは何ですか。
パブリックアートは欧州で始まり、米国に広がりました。公共建築費の一定割合をパブリックアートに割くのですが、米国では最初は0.5%だったと思います。そこで生まれる芸術家の仕事量は、美術館の買い上げや、ギャラリーが作品を販売するのとはまったく異なるレベルです。とくに若いアーティストたちを助け、支援する意味で大きな力が生まれる、しかもそこからアーティストたちがチャンスを得て育っていく。その波及効果は計り知れないものがあると思います。
——米国のパブリックアートにはどのような作品があるのですか。
日本だと美術系アートと狭く考えがちですが、米国ではポスターなどのデザインや、コンサートや舞台芸術のパフォーマンスまであり、実に幅広い。私はロサンゼルスの大地震で壊れた橋の建て替えで、鉄の橋の欄干をコンクリートの彫刻で作る企画を提案して採用されました。本来だと橋作りはエンジニアだけで出来る。しかしパブリックアートのため公共工事費の1%枠を芸術やアートに割きますから、さまざまな分野のアーティストが橋作りに参画し、橋一つでもいろいろなアイデアが出てきます。

——単に橋を作ればいいというのではないのですね。
面白いのはエンジニアとアーティストの立場が逆転するのです。「こういうアートを可能にする橋のエンジニアリングを考えてください」と。もちろん素人考えの案もあって、「こんなものはあり得ないよね」というものは審査で外される。しかしエンジニアではない立場からの提案によって可能性が広がります。
もう一つ私が担当したのがサンフランシスコの病院でした。高齢者のターミナルケア(終末期医療)を兼ねた病院を新しく3棟を建てるというので、私を含め選ばれた7人のアーティストが2フロアずつ受け持って作品を作りました。私は素焼きのテラコッタのレリーフや、木や陶でランドマーク的な作品を5点ぐらい。それと病院の屋上の、日本でいえば坪庭を大きくしたようなコートヤードに、金属で作った花や花びらを吊るし、空中を飛んでいるような彫刻を作りました。


——どのようにしてアーティストは選ばれるのですか。
日本と大きく違うのは長いスパンでプロジェクトの取り組みを考えていることです。ロスの橋でいうと80の橋を16年かけて架け替えていきました。「今年はこの地区の橋5つを架け替えるので、興味ある人は橋に対する思いと、過去の作品のポートフォリオを出してください」と募集が行われます。応募者の中から声をかけられたアーティストは提案書を作り、プレゼンテーションをする。最終審査は地元代表、パブリックアートの責任者、建築家など4人構成の委員会で審査します。朝から午後にかけてプレゼンを受け、次の日に発表という短いスケジュールなので、誰も介入する暇もなく、すごくフェアな体制です。またこの時は落ちても、16年続くプロジェクトなので、声がかかる可能性は十分にあります。
——橋と病院以外に米国でかかわられたパブリックアートはありますか。
決まりかけたのが、アニマル・シェルター(捨てられた動物を保護する施設)と消防署のパブリックアートです。アニマル・シェルターでは動物を模したベンチを点在させるアイデアを提案し、消防署では水を武器に戦っている人に、水で癒される場を提供してはと思い、湧き水のような噴水の庭を提案しました。これは審査員がすごく気に入ってくれたのですが、私が日本に戻ることになり実現しませんでした。
——日本のアーティストの現状をどのようにご覧になっていますか。
どうやって生活しているのかなと思うほど大変です。美術界にはおカネがない。企業はアートどころでない。もしパブリックアートのための1%フォー・アートが制度化されれば若いアーティストにチャンスとなり、アーティストの裾野を広げます。また単なる美術系アートにとどまらず、デザイン、工芸、演劇、パフォーマンスという分野をパブリックアートの対象にしたら、実に幅広いアーティストを支援することになります。
——日本のアーティストに足りないと思われるものは何でしょう。
アーティストを売り込むコミュニケーション能力です。日本がアーティストとその作品を売り込む力をインフラとして持っていたら、英国のようにアーティストを超一流にして国を挙げて支援することになる。どうして資源のない日本がやらないのか。実現すればすごい外貨獲得源となるでしょう。日本ではアートをビジネスやおカネに絡ませるのはピュアじゃないと頭からはねつけるけど、たとえば村上隆*⁴のパブリックアートが日本のどこにもないというのは信じられない話です。彼は人を集められ、外貨を獲得できる、日本で唯一と言っていいアーティストです。好き嫌いでなく、世界中にファンがいるのに、当の日本が何もしないというのは信じられない。15、6年前、アニッシュ・カプーア*⁵の大展覧会にロンドンでたまたま遭遇しました。英国を挙げて応援し、テレビコマーシャルも打たれ、最終日には大行列ができました。新しいアーティストの誕生といった趣でした。作品もすばらしかった。数年前にはシカゴの市街地に彼のステンレス製の大作が置かれましたが、製作費が巨額で日本とレベルが違いすぎる。村上さんに会ったことはないが、歯がゆいだろうなと。
*4 村上 隆(むらかみ たかし、1962年~ ) 日本の現代美術家、ポップアーティスト、映画監督。アニメをポップ調で表現した作品などで外国で人気が高い。
*5 アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor、1954年~) インド出身の現代彫刻家。シンプルな立体ながら、金属や光を吸収する染料を使って視覚に強く訴える作品で知られ、パブリックアートも数多く制作している。
——アジアでパーセント・フォーアートを制度化しているのは韓国と台湾ですが、五十嵐先生は台湾でもパブリックアートを制作されましたか

日本のアートコンサルタント会社が台湾のコンペに参加してくれないかと声をかけてくれたのがきっかけです。台北の副都心にある政府合同庁舎の玄関ホールにパブリックアートを設置するというので、正面の壁に飾る陶彫刻を提案しました。大変なコンペで、企画書は40ページ以上、マケットは1立方平方メートルのものを実際に使うマテリアルで作ってください、と。最終審査は人気投票で行われ、私の作品に決まりましたが、台湾の大事なプロジェクトに日本人を選ぶというのは大変なことだと思います。

インタビューを終えて
五十嵐氏は長年米国で暮らした経験から、より客観的に、かつフェアに日本の文化状況をとらえている。その目からすると、なんとも歯がゆく感じることが多いようだ。一つは、アーティストを育てていこうという風土の欠如だ。若いアーティストに創作の機会を広く与えるという点で「1%フォー・アート」は格好の制度だが、世界第3位の経済大国がまだこれを実現しておらず、韓国、台湾の後塵を拝している現実に歯がゆさがある。もう一つは、国を挙げて日本の文化芸術を世界に売り込む戦略の欠如だ。五十嵐氏は村上隆氏のような世界的に著名なアーティストを日本が生かしきれてないことを一つの事例に挙げる。村上氏の作品に対して日本の一部に批判があるが、五十嵐氏は「好き嫌いを言ったら、誰も好き嫌いはある。しかしそういう判断基準はおかしい」と指摘する。人気あるものは人気あるものとしてフェアに評価すべきだと言うのだ。「村上氏のパブリックアートが日本のどこにもないというのは信じられない」とも。名実共に文化国家と言われるようになるために日本が取り組まなければならないことはまだまだ多いとインタビューで感じた。

五十嵐 威暢いがらし たけのぶ
彫刻家。1944年、北海道生まれ。1968年多摩美術大学卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校大学院修士課程修了。1994年以降、ロサンゼルスを本拠に彫刻制作。2004年帰国し、日本各地の公共空間に彫刻やレリーフを制作している。2011年〜2015年まで多摩美術大学学長。NPOアートチャレンジ滝川理事長。その作品はニューヨーク近代美術館をはじめ世界の美術館で所蔵されている。