国際瀧冨士美術賞 OG インタビュー
青木 野枝 AOKI Noe

国際瀧冨士美術賞 OG インタビュー:青木 野枝

国際瀧冨士美術賞 OG インタビュー
青木 野枝 AOKI Noe

TOP 矢印インタビュー矢印 国際瀧冨士美術賞 OG インタビュー:青木 野枝

インタビュー

 国内外で活躍する彫刻家の青木野枝さんは瀧冨士美術賞(現在の国際瀧冨士美術賞)が創設された1980年の第1期受賞者。彫刻から出発しながら版画などの分野にも活動領域を広げ、アートを通じて知り合った地域の人々との交流を通じて聞き取りにも取り組んでいる。世界を視野に据えながら、自然体でしなやかなアーティストである。(聞き手・西川恵)

青木 野枝

青木 野枝(あおき のえ)

1958年東京生まれ。’80年、第1回瀧冨士美術賞優秀賞。’81年、武蔵野美術大学造形学部彫刻科卒業。’83年、同大大学院造形研究科(彫刻コース)修了。2000年、芸術選奨文部大臣新人賞。’03年、中原悌二郎賞優秀賞。毎日芸術賞(’13年度)。

「 Untitled( NA81-2)」
「 Untitled( NA81-2)」/1981年/神奈川県民ホールギャラリー

——昔から芸術家になりたかったのですか。

 小さいころ、「何になりたいの」と言われても分からなかった。子供は「運転手さんになりたい」とか、「看護婦さんになりたい」とか言うのですが、私は職業では分らなかった。勉強していい会社に入っても幸せになれるとは思えなかった。素敵な人にはなりたかったけど、どうしたらなれるのか分からない。自分が何をやりたいか追求しながらいきたいと思っていました。お医者さんにはちょっとなりたくて、いまで言えば「国境なき医師団」のように人の役に立ちたいなと思っていました。

——高校で芸術の方向に進まれました。

 芸術でなくても良かったのです。石神井公園という自然の多いところに住んでいて、父も植物が好きだった。選択肢としては都立の農業高校か、園芸高校か、芸術高校の3つがあり、何となく興味があった芸術高校を選びました。高校に受かった時点でコースを決めなければならず、彫刻、日本画、油絵、デザインの中から、デザインは違う、日本画と油絵も違うと落としていって、彫刻が残りました。農業に進んでいたら、それはそれで結構楽しかったと思います。

「 Untitled( NA92-3)」
「 Untitled( NA92-3)」/1992年/豊田市美術館(愛知)

——高校ではどうでしたか。

 私は絵が下手で、石膏のデッサンをやらされると、絵の中に収まらない。必死に描いていたのですが、全くうまくならなかった。彫刻科の人は立体に起こすことはできるけど、結構、絵がヘタなんです。ただ石を彫ることは絵画のように技術の約束事がなくどんどんできる。これが面白かった。

——大学でも女性で彫刻する人は少なかったでしょうね。

 完全な男社会で、教授が「女性は卒業したら結婚しなさい」という世界でした。私の少し上の世代ではウーマリブやフェミニズム運動がありましたが、私としてはそこで争いたくなかった。彫刻や美術はもっと自分の問題であって、男であれ、女であれ、作るのは人間という世界です。その意味でも彫刻はいいなと思っていました。

——1980年、4年生の時に創設されたばかりの瀧冨士美術賞を受けられました。どういうきっかけだったのですか。

 3年の時から鉄をやっていて、材料の鉄を一杯買いたいな、と思っていました。たまたま学生課に行ったらポスターが貼ってあって、受賞すると30万円の奨学金をもらえる。しかもレポートを出せばよく、奨学金は何に使っても構わない。受かるとは思ってなかったので、受賞した時はやった〜と。奨学金で鉄板を買って、すごく助かりました。

「 Untitled( NA95-7)」
「 Untitled( NA95-7)」/1995年/国立国際美術館(大阪)

——青木さんにとって転機というのはありましたか。

 78年、20歳の時に1カ月半ほど欧州を旅しました。1ドル360円時代で、貯めたアルバイト代での貧乏旅行でしたが、本当に楽しかった。スイス、英国、フランス、スペインを回りましたが、ミニマルアートのドナルド・ジャッド*1など本物のものがいっぱいあって、日本で見られなかったものがたくさん見れた。感じたことは、美術史は男性が作っているのだということと、人、皆それぞれで、好きなことをやっていいんだな、ということです。ガウディ*2などは美術史からポーンと飛び出している。この人たちはやりたいことをやっている。自分もコンセプトに縛られず、好きなことをやろうと思いました。

*1 ドナルド・ジャッド(Donald Judd / 1923 〜1994 年) 米国の画家、彫刻家、美術評論家。ミニマル・アートを代表するアーティストの1 人。

*2 アントニオ・ガウディ(Antonio Gaudi / 1852 〜1926 年) スペイン・カタルーニャ出身の建築家。バルセロナの教会サグラダ・ファミリアなどその作品群はユネスコの世界遺産に登録されている。

「 寒天 I」
「 寒天 I」/2000年/目黒区美術館(東京)

——やりたいものを見つけたのはいつですか。

 81年の卒業制作では、大学正門にミニマルアートっぽい四角い箱を建てて塞ぎ、隙間から向こうが見えるコンセプチュアルな作品を作りました。しかしそういうことをやっても私じゃないなと感じました。あのころの大学は4浪が普通で、女性はほんの数人。現役で入った私などは馬鹿にされる。「ミニマルアートとは」「もの派」*3とか、「え、李禹煥(リー・ウーハン)*4を知らないの」とか言われる。そんな世界で必死に理論武装しようと思ったけど、私には向いてない。それでもそんなものを作ったのですが、自分はこういう世界ではないという思いがありました。 修了制作では、鉄で中に空間があるようなものを作りました。そのころ気になっていたのがタワー、塔みたいなものです。仏舎利のような小さなものを収めるだけなのに高い塔を作るわけで、それがすごく面白く思えた。建築だけど私には彫刻に見える。中に空間があって 自分がその周りを歩けるようなもの、その中をすり抜けるようなものを造りたいな、と。そのころ彫刻というと塊だったけど、もっと風が通るようなものを、と思いました。この修了制作でやりたいことが分かった気がしました。

*3 もの派 60 年代末に始まり70 年代半ばまで続いた日本の現代美術の動向。石、木、紙といった<もの>を単体、あるいは組み合わせて作品とする。ものへの還元から芸術の再創造を目指した。

*4 李禹煥(リ・ウーファン/ 1936 年〜) 大韓民国生まれで、日本を拠点に活動。「もの派」を理論的に主導した。

「 空の水/苔庭」
「 空の水/苔庭」/2012年/越後妻有アートトリエンナーレ(新潟)

——芸術を一生の仕事にと思ったのはいつごろですか。

 大学院に進んだ時も美術で食べていけるとは思えなかった。特に彫刻は。でも続けたいなと、そんな軽い気持ちでした。大学を出てから年に何回か個展をやったり、そのうち企画も来るようになりましたが、食べていけるわけじゃなくて、ほかのことでお金を稼ぎながらやっていました。一生彫刻をやっていこうとは思っていなくて、何かほかにいいものがあったら、そちらに行くだろうなとも思っていた。しかし35、6歳のころでしたが、自分は手を使って考えることが好きだと気づきました。鉄を溶断し、切っていくことを繰り返しながら前に進んでいく。これが向いているな、と。

制作中の青木野枝氏
制作中の青木野枝氏

——鉄を切っている時は何ごとか思索しているのですか。

 朝9時から夜の6時まで、お面をかぶってガスで鉄を溶断していくのですが、何も考えないで、ただただ鉄を切っている。無になっています。同じことを繰り返すことで少し違うところにいける感じがする。元養鶏場をアトリエにしているのですが、アトリエではパーツでしか見られず、美術館で組んで初めて作品となります。別に失敗とか成功ではなく、鉄に向かって誠実に作業をしていれば絶対に大丈夫という安心感があります。

「 空の水XIV」
「 空の水XIV」/2007年/神奈川県立近代美術館 葉山

——鉄を切りながら、発想が湧くということはないのですか。

 なくはないですが、スケッチをざっと描いたら、あとは切るだけ。考えても「何を食べようかな」とか、とりとめもないことです。考えない方がいいかなとも思います。ある時、よく知られた画廊から企画が持ち込まれました。「こんなすごい画廊でやれる」と気負っていろいろ考えましたが、でき上がったものを見るとすでに私の頭の中にあるもので、「これ、私わかっている」という感じで、魅力がない。私は自分が驚くものを見たい。ですから美術館でパーツを組み立てながら、ここにつけちゃえといった感じでやっています。「何かいいかも知れない」と独り言を言ったりして。私を知っている人は「またかよ」という感じで見ている(笑)。

「 ふりそそぐものたちII」
「 ふりそそぐものたちII」/2012年/豊田市美術館(愛知)

——最初のスケッチにはないものを加えるということもあるのですね。

 よくあります。本来つけるものを別のところにつけちゃえ、と違う場所に持っていってその場で溶接する。その時その時によって、という感じです。

——毎年個展をしてきたのは発表の場をもちたいということですか。

 見せたいというより、社会の風に通すことがとても大事で、自分だけで作品を持っていてはダメな気がする。ある意味、美術は縮まっていく世界で、自分だけでやっているとどんどん狭くなっていく。社会の風にさらし、世界にちらっとでも「こういうことをやっているんです」と見せることが大事。やらないと次がつくれない。やると次にやることがなんとなく見えてきて、その先に進める。母親に借金したり、アトリエの大家さんに滞納したりしながらでも、年に何度も個展をやってきたのはそのためです。

——青木さんは新潟県や瀬戸内の豊島でお年寄りの聞き取りをしていると聞きました。

 今ちょっと滞っているのですが、十数年前にトリエンナーレで新潟の十日町に行った時、山の水を集めたプールがあって、そこに作品を置きたいなと思いました。一升瓶と和菓子をもっていって、地域の集まりで「子供さんとワークショップをやりたい」「ご迷惑をかけません」とお願いしました。皆黙っている中で1人の方が「迷惑かけないならやってみれば」と言ってくれました。それ以来、稲刈りや田植えの時に行ったりしてすっかり仲良くなったのですが、そこに住んでいる人たちが素晴らしい。80代の人が馬喰の世界の話や、牛を引いて山に行った話などをしてくれる。瀬戸内の豊島にもトリエンナーレで通っているのですが、ゴミの不法投棄を覆したという自負があり、人生の辛さがわかっている人が多く、それでいて不平も言わない。スクッと立っている姿も美しい。ふつうのおじいさんだけれど尊敬してしまうような人が多い。日本はこういう人たちのお陰で成り立っているんだな、と感動します。しかし高齢化で村が消えかかっている。このおじいちゃん、おばあちゃんの話はお孫さんは聞かないだろうから、第三者が聞いておかなければと思ったのがきっかけです。

「 立山/クラクフ」
「 立山/クラクフ」/2014年/Museum of Contemporary Art in Krakow

——外国での展覧会は。

 2014年から15年にかけ、チューリッヒ(スイス)、クラクフ(ポーランド)、ハレ(ドイツ)でやりました。アウシュビッツに近いクラクフの現代美術館は、映画「シンドラーのリスト」にも出てくる工場をリノベーションしたもので、ナチの石鹸の話から、人が使った石鹸を積んだ作品を造りました。

——外国で印象に残る感想はありますか。

 ロンドンで講演会をやった時、素材をメインにしてやっていて非常に日本的な作品ですねと言われました。あー、そうなのか、と私の方がビックリしました。

「 原形質/豊田」
「 原形質/豊田」/2015年/豊田市美術館(愛知)

——日本の美術界の現状をどのように見ていますか。

 今のアーティストは、分かっている人はすごく分かっていて、世界情勢と作品がリンクしていて、世界にどんどん出て行く。しかしそうでない人は新聞も読まないし、好きなところしか見ない。二極化しています。私は新聞とかテレビを通じてでも、世界はこうなっているんだということを理解しながら創作していくことが大事だと思っています。それと今の時代、若い作家がやりづらいと思います。私のころは売れない、食べれない、のは当たり前だった。今はそこそこ売れたり、スターが出ている。そのせいか企画展でなければダメだとか、最初からスターになりたいと思い、じっくり自分の作品に取り組むことができなくなっている。画廊やキューレータのコマに使われてしまうケースも少なくない。身近で彫刻をやっている学生は派遣の仕事をこなしながらアパートとアトリエを借り、ギリギリでやっていて、「今日は朝ごはんたべないで来ました」と言う。彫刻はいろんな経費がかかるので、そんな状況ではとても続かない。 韓国や中国の富裕層は自国の作家が将来どう育つか分からなくても、いずれ自分の国に返ってくるから作品を買ってあげようという気持ちがある。日本のお金持ちはそういうところがない。世界的な芸術家が出ればそれだけ日本は強くなるのに、そのイメージが持ててない。

——若い芸術家を育てるため、当協会への助言があれば。

 協会は熱海と湯河原にまたがる地域に工房と関連施設を持っているので、若い作家にアトリエとして使ってもらい、湯河原の人々を巻き込んで展覧会をやるのも面白い。若い作家は社交性があるので、地域に住み着いてやっていけるのではないでしょうか。

「 原形質」
「 原形質」/2012年/豊田市美術館(愛知)
「 ふりそそぐもの/娯楽室」
「 ふりそそぐもの/娯楽室」/2013年/大原美術館・有隣荘(岡山)
「 ふりそそぐもの/旧あざみ美容室」
「 ふりそそぐもの/旧あざみ美容室」/2013年/あいちトリエンナーレ

作品撮影:山本糾
協力:ハシモトアートオフィス

ページトップヘ